- 聖徳太子はどんな人だったの?
- 聖徳太子は厩戸(馬小屋)の前で生まれたから厩戸皇子?
- 初めての摂政;摂政とは
- 豊聡耳神子と言われた聡明な聖徳太子
- 聖徳太子の主な功績と結果
- 仏教による政治_人としての道を示す
- 冠位十二階に見る特権意識の排除
- 十七条憲法とその意味とは_現代に通じる人間のあるべき姿
- 遣隋使の派遣_「日出づる国」の心意気
- 倭の五王との違いは対等な立場
- 聖徳太子を取り巻く政治情勢_蘇我氏との共存と軋轢
- 聖徳太子と蘇我馬子の関係
- 蘇我氏の権力と聖徳太子の抵抗
- 蘇我氏に敗れ、晩年は斑鳩に籠る_蘇我蝦夷の登場
- 異説の多い聖徳太子
- 京都の太秦の広隆寺の弥勒菩薩に見る聖徳太子の心
- 現代人に生きる聖徳太子の心を取り戻そう!
この記事の目次
聖徳太子はどんな人だったの?
聖徳太子は、6世紀後半に用明天皇の第二皇子として生まれました。母上は欽明(きんめい)天皇の皇女である穴穂間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)です。現在の天皇家が大王と呼ばれた時代に生まれた方で、日本書紀、古事記と言った最初の歴史書や私たちの教科書にも記載されています。まだ、天皇家が大王家と呼ばれ、日本全体に対して支配力が弱く、各地の豪族の力が強い時代に、摂政として中国の律令制などによる国の統治を目指していろいろな制度を取り入れようとしました。しかし、時代の変革に対しては抵抗も大きく、結果的には破れています。
聖徳太子は厩戸(馬小屋)の前で生まれたから厩戸皇子?
聖徳太子は、母の穴穂間人皇女が厩(うまや)の前を通りかかった時に産気づき、生まれたため、厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれていたと日本書紀には記載されています。しかし、母の実母の実家であった蘇我馬子の屋敷で出産したため、厩戸皇子と呼ばれたという説もあり、実際のところはわかっていません。ただ、幼少のころから非常に聡明で、天皇からも可愛がられていたようです。当時、大和朝廷の最大の権力者であった蘇我馬子がおじさんに当たっています。用明天皇も蘇我氏の血を引いており、蘇我馬子は叔父に当たり、非常に蘇我氏との血縁が強い方でした。
聖徳太子の呼び名は、亡くなられてから129年後に送り名されたもので、生前は、厩戸皇子以外にも、豊聡耳神子、上宮太子など多くの呼ばれ方があったようです。
初めての摂政;摂政とは
聖徳太子は、天皇家の初めての女性天皇となった推古天皇の摂政に任じられます。摂政になってからの聖徳太子は、最初は権力者の蘇我馬子とうまく折り合っていました。しかし、いつしか、蘇我家としての意識は薄らぎ、天皇家の一員としての立場に目覚めます。そして、豪族たちを支配する馬子とは決別して、摂政として独自に政治を進めるようになったのです。
中国の隋に小野妹子を派遣し、国内の豪族たちを抑えるために隋の律令制を取り入れることを考えるようになりました。冠位十二階などで、馬子を抑えるための施策を打ち出したのです。
豊聡耳神子と言われた聡明な聖徳太子
聖徳太子は、豊聡耳皇子と言われたように、一度に10人の人の訴えを聞くことができたという伝説は有名であり、非常に聡明で頭の良い方だったと言われています。そのために、蘇我馬子の言いなりにはならず、独自に政策を進めようとしたのです。しかし、それは、蘇我氏をはじめ、多くの豪族たちの反感を買うようになってしまいます。蘇我馬子が生存中は、それでも甥の政策を認めてはいないものの、聖徳太子と直接に衝突するという事態を避けていました。しかし、蘇我馬子が亡くなり、長男の蘇我蝦夷が蘇我氏の実権を握りますと、露骨に聖徳太子と対立するようになったのです。
豪族の支持を得られない聖徳太子は次第に大和朝廷の中で孤立するようになり、叔母の推古天皇もかばい切れなくなります。かつて、崇峻天皇は蘇我馬子の差し金によって暗殺されている例もありました。そのため、聖徳太子は政治の表舞台を去って斑鳩の里、現在の法隆寺のある場所に隠棲して、朝廷には出てこなくなったのです。
聖徳太子の主な功績と結果
聖徳太子は、日本書紀をはじめ、古事記、上宮記などたくさんの古代歴史書に、その功績が挙げられています。蘇我氏の反対を押し切って実施したものもあり、その政策故に自身の政治家としての道が閉ざされた面もあったのです。しかし、古代の日本においては非常に革新的な斬新な政策を取り入れようとしていました。
西暦592年に崇峻天皇を暗殺した蘇我馬子は、豊御食炊屋姫を推古天皇として立てるとともに、厩戸皇子は皇太子となったのです。そして厩戸皇子は、摂政として馬子とともに推古天皇を補佐します。厩戸皇子は、摂津の難波(今の大阪)に四天王寺を建立して、仏教興隆の詔(みことのり)を発します。この辺りまでは、馬子とともに政策が行われていたようです。しかし、高句麗の僧である彗慈(えじ)が渡来して太子の仏教の師となり、その他にも渡来士族らが中国の隋の律令制という官僚組織による統治を勧めたことにより、太子は深い興味を持ちます。また、太子は新羅(しらぎ)征討を行いましたが、馬子は新羅征討には反対していました。太子はそれを押し切って2度に渡って兵を送り、さらに仏教に基づく政策を推し進めるようになったのです。
仏教による政治_人としての道を示す
聖徳太子は、最初から聖人として行動していたわけではなく、蘇我馬子の物部守屋との戦いにおいて積極的な役割を果たしたり、新羅征討に派兵をしたりしました。当初は仏教に対しては、単に国の支配方法として利用していただけだったようです。しかし、高句麗の僧彗慈を迎えて仏教の本当の理念を学び、信仰心を持って深く仏教に帰依し、その教えを国に行き渡らせようとしました。
冠位十二階に見る特権意識の排除
聖徳太子は、604年に冠位十二階を定め、冠の色によって豪族たちの朝廷内の階級を表すようにしました。階級も仏教の教えに沿って、徳・仁・礼・信・義・智をそれぞれ大小に分けて十二階としたものです。この階級は豪族に関係なく与えられるものであり、豪族たちは、それまでの氏姓制度(像族であれば地位・身分につくことができる)にこだわって、冠によって階級を分けられることに反発しました。これは豪族たちを朝廷の官僚機構に取り込むものだったからです。豪族たちが警戒していた中国の律令制度の基盤となるものでした。
もちろん、蘇我馬子も反対でしたが、この時には表立って反対はしなかったようです。もともと太子は蘇我一族と血縁が強く、いずれは太子も折れると考えていたのでしょう。