- 龍馬が生まれ育ったまち
- 龍馬の生い立ちと家族
- 少年時代の龍馬
- 訪ねておきたいスポットその1「龍馬の生まれたまち記念館」(高知市上町)
- 訪ねておきたいスポットその2「坂本龍馬記念館」(高知市浦戸)
- まだ見ぬ世界と新たな出会い
- 龍馬と武市半平太との出会い
- 土佐脱藩と勝海舟との出会い
- 訪ねておきたいスポットその3「品川台場」(東京都港区)
- 訪ねておきたいスポットその4「龍馬脱藩マラソン大会」(高知県高岡郡梼原町)
- 訪ねておきたいスポットその5「神戸海軍操練所跡」(神戸市中央区)
- 最愛の人お龍との出会い
- 龍馬に助けられるお龍
- そして結婚へ
- 訪ねておきたいスポットその6「寺田屋」(京都市伏見区)
- 訪ねておきたいスポットその7「霧島温泉郷」(鹿児島県霧島市)
- 亀山社中の結成と薩長同盟
- 龍馬たち薩摩へ向かう
- 過激な長州藩
- 悲願の薩長同盟を締結
- 訪ねておきたいスポットその8「亀山社中記念館」(長崎市伊良林)
- 船中八策と龍馬の死
- 海援隊が晴れて土佐藩直属に
- 船中八策そして大政奉還へ
- 龍馬死す
- 訪ねておきたいスポットその9「グラバー園」(長崎市南山手町)
- 訪ねておきたいスポットその10「霊山護国神社」(京都市東山区)
- 龍馬は日本に何をもたらしたか
この記事の目次
龍馬が生まれ育ったまち
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それでは龍馬の足跡をたどっていきましょう。龍馬は17歳まで土佐国高知(現在の高知市)で過ごし、そこから日本全国を駆け回ることになるのですが、この高知でどのような少年時代を過ごしたのでしょうか。
龍馬の生い立ちと家族
今から180年ほど前の江戸時代末期、坂本龍馬は現在の高知市に生まれました。当時、土佐藩に仕えていた武士には厳格な階級制度があり、それは上士と下士と呼ばれていて下士(いわゆる下級郷士)の中には農民同然の暮らしを余儀なくされていた者もいたとのこと。坂本家は下士の家柄ではあるものの、豪商である本家から資産を分与されていたため、かなり裕福であったそう。
父母と兄が一人そして姉が三人いる中で、末っ子として誕生した龍馬は幼いころから三女の乙女からの薫陶を受け、生涯にわたってその関係は続きました。乙女は地元の人間からも「坂本のお仁王」と呼ばれるほどで、体力や腕力だけでなく学問も良くできた才女だったらしいですね。龍馬は10歳の頃に母を亡くし義母であった伊与も、龍馬は実の子ではないにも関わらず、まるで我が子のように優しく時には厳しく龍馬に接したとのこと。こうしてみると坂本家の女性が龍馬の人間性を育て上げた。と言っても過言ではありません。
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少年時代の龍馬
実は龍馬は少年時代によくおねしょをしていたそう。家では女性たちに囲まれる生活を送っていたため、甘やかされていたわけはないでしょうが14歳になる頃くらいまではかなりの泣き虫だったとか。しかし、伊与の前夫の実家だった川島家へたびたび出入りするうち、世界地図や珍しい品物などを見せてもらっては、まだ自分が知らない世界のことに興味を持ち始めた龍馬なのでした。
そして14歳の頃に始めた剣術が彼に大きな転機を及ぼします。わずか数年で龍馬の才能は開花。腕もめきめき上がり藩の中ではその腕利きぶりを知らぬものはいないという有様。そうして武士らしく逞しくなっていく龍馬の姿に、乙女や伊与たちは頼もしく思えたことでしょう。
訪ねておきたいスポットその1「龍馬の生まれたまち記念館」(高知市上町)
龍馬が生まれた高知市上町の歴史や文化、坂本家の家族や龍馬ゆかりの人物などを中心に模型やシアターを交えて展示。館内の雰囲気も坂本家を再現したようなデザインで、落ち着ける空間になっています。
龍馬の生まれたまち記念館 | 龍馬の生まれ育った高知市上町周辺
龍馬の生まれたまち記念館は、龍馬の人間形成の基盤となる家族やまちを紹介し、さまざまな困難を乗り越え、近代国家へ尽力した龍馬を顕彰するため、2004年3月誕生地・上町に開館いたしました。展示館機能と公民…
訪ねておきたいスポットその2「坂本龍馬記念館」(高知市浦戸)
龍馬が少年時代に太平洋の彼方を眺めたであろう桂浜。ここには有名な彼の銅像もあり、龍馬に関する資料を数多く展示しています。リニューアルしたばかりですし龍馬ファンならぜひとも訪れておきたいところですね
高知県立坂本龍馬記念館|高知県立坂本龍馬記念館
まだ見ぬ世界と新たな出会い
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既に土佐藩の中でも腕利きの剣士として名を馳せつつあった龍馬。彼の志はいよいよ土佐を飛び出してまだ見ぬ世界へと飛び立とうとしていました。彼にとってその後の人生を変える大きな出会いがあったのもこの頃です。
龍馬と武市半平太との出会い
剣術の道をさらに究めるため龍馬は江戸へ旅立ちました。しばらく江戸の千葉道場で励んでおり、ちょうどペリーの黒船が浦賀へやって来たのもこの頃でした。土佐藩の警備役として動員された龍馬。いつ黒船がやって来ても討ち取ってやるぞと血気盛んな有様だったのがよくわかりますね。父に宛てた手紙の一節。
「異国船処々に来り候由に候へば、軍も近き内と奉存候。其節は異国の首を打取り、帰国可仕候。」
(黒船がたびたび出没するようになり、戦いも近いものと思われる。その際には異国人の首を討ち取って帰国しますので)
この時は異国との戦いには発展しませんでしたが、この頃から過激な尊王攘夷(天皇を敬い、日本に害をなす外国を排斥すること)の思想が若者の心をとらえ、特に長州藩や薩摩藩、土佐藩など多くの志を抱いた志士たちが徳川幕府側の大きな脅威となったのでした。そんな尊王攘夷の思想を抱く武市半平太と出会ったのも、それからしばらくのことでした。
土佐脱藩と勝海舟との出会い
武市半平太は土佐藩の同じ下士の出身で、龍馬とは気の合う仲だったようで龍馬自身もその考えに傾倒していきます。龍馬が剣術修行を終えて土佐へ帰国した頃、時を同じくして武市は土佐勤王党という下士を中心とした尊王攘夷グループを形成。しかし武市の考えはやはり過激で、土佐藩の重役を亡き者にしてまでも藩の考えを尊王攘夷のみにしたいと固執していたため、親友であったはずの龍馬は考えについていけず次第に疎遠になっていきました。
武市とは違う形で尊王攘夷を成し遂げたい。その思いで龍馬はついに藩を捨て家族を捨て脱藩します。脱藩したところで当時の脱藩志士たちが向かう定番の場所といえば、やはり京なのですが龍馬は違いました。おそらくは江戸の千葉道場のツテがあったのか、当時の幕府の有力者ともいえる勝海舟に弟子入りすることが叶いました。
勝と行動をすることによって、龍馬は勝の薫陶を受け次第に自らの道を思い定めることができるように。そのきっかけとなったのが神戸海軍操練所の開設でした。龍馬は仲間たちと共に船の取り扱いや操縦法を学んでいくうちに貿易や海運の魅力に取りつかれ、これがのちの海援隊の結成へと繋がっていったのかも知れません。
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江戸幕府を終わらせた幕臣勝海舟はどんな人? – Rinto~凛と~
訪ねておきたいスポットその3「品川台場」(東京都港区)
黒船来航に危機を感じた徳川幕府が品川沖に造らせた台場(砲台)跡。龍馬もここで警備をしていたということです。現在は公園となっており海上バスで行くことができ、海上バス待合所には台場の歴史パネルも展示中。
台場の歴史|お台場海浜公園&台場公園|海上公園なび
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