幕末日本の歴史江戸時代

龍馬ファン必見「坂本龍馬」の歴史と共に関連史跡10選もご紹介

龍馬たち薩摩へ向かう

海軍操練所は元来さまざまな若者たちが集まっていた場だったのですが、そこには反幕府の尊王攘夷志士たちも少なからず混じっていました。幕府の機関であるのに反幕府の者がいるということは、それはいずれ捻じれをもたらすようなもの。操練所は開設からものの一年で閉鎖に追い込まれることに。

そこで責任者の勝海舟は、行くあてのない若者たちを薩摩藩の西郷のもとへ預けることにしました。西郷の人柄をよく知る勝は、彼ならば悪いようにはしないだろうと考えたのでしょう。龍馬はじめ20数人が薩摩へ向かうことに。

薩摩へ着いた龍馬一行は、薩摩藩家老の小松帯刀(こまつたてわき)から海運の仕事をしてくれないかと依頼されることに。本格的に操船と航海術を学んだ者たちに働ける場所を提供してくれたのでした。そうして「亀山社中」という海運商社を長崎にて設立し、いよいよ海運業に乗り出すことになりました。

過激な長州藩

実は幕末におけるこの時期、薩摩藩と長州藩とは非常に仲が悪い間柄でした。これより数年前にあった禁門の変をきっかけに互いに憎しみあい、いがみ合う関係が続いていたのです。長州はあまりに尊王攘夷思想が過激すぎ、禁門の変を引き起こし、ついには徳川幕府の征討を受ける羽目に陥りました。第一次長州征討がそれなのですが、この時は薩摩の西郷吉之助の尽力によって三人の家老の処分やかくまっていた尊攘派公卿の追放処分などで事なきを得ました。しかし高杉晋作らの強硬派が藩論を牛耳るに至って桂小五郎をリーダーに据え、再び徳川幕府への反抗の態度を露わにすることに。

悲願の薩長同盟を締結

この長州藩の危機に際して薩摩藩を動かそうとしたのが坂本龍馬なのでした。喉から手が出るほどに武器が欲しい長州と、不作続きで食糧が欲しかった薩摩。この二つの弱点を互いに補い、結び付けようとしたのです。幾度かの齟齬がありながらも形式上は手を結ばせることに成功。これが薩長同盟といわれる有名な歴史的出来事となりました。

亀山社中は同じ土佐の中岡慎太郎たちと共に、この時の海運輸送において大車輪の活躍を見せ、龍馬自身も長州側について参戦したほどですから気合の入れようがわかるというもの。幕府の決行した第二次長州征討は薩摩の不参加と長州の善戦によって失敗。その後幕府は凋落の一途をたどる結果となったのでした。京へ戻った龍馬はお龍と結婚し、前章でお話しした寺田屋事件が起きることになります。

船中八策と龍馬の死

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いよいよ亀山社中が海援隊と名を変える時が来ました。世界へ雄飛する夢が叶うところまであと一歩のところまで来ていたのです。しかし暗雲は徐々に忍び寄ることに。

海援隊が晴れて土佐藩直属に

きっかけは、そもそも海難事故で持ち船を喪失してしまうという災難だったのですが、ここでも龍馬の人徳が生きました。薩摩藩と長崎の豪商小曽根乾堂が経済的支援をしてくれたのでした。この頃にはもう西郷との関係も切っては切れないものになっていたのかも知れません。名を変えた海援隊は人数も増え、事業も大きくなり始めていました。

そして正式に海援隊を土佐藩直属として認めたのが後藤象二郎でした。大河ドラマでは青木崇高さんが演じられてましたね。既に藩の執政となっていた後藤は、龍馬の有能さを認め脱藩の罪を許して様々な助言を求めます。すぐその後に起こった「いろは丸事件」でも海援隊のために相手側の紀州藩と交渉を繰り広げ賠償金を勝ち取ったのでした。龍馬の目指す海運貿易の理想と土佐藩の利害が一致したのでしょう。

船中八策そして大政奉還へ

慶応二年、龍馬と後藤の二人は船で長崎から京へ向かうことに。主君である土佐藩主山内容堂も参加する四候会議に赴くためでした。なぜ龍馬も同行させたのか?やはり薩長同盟を実現させた龍馬の政治的手腕を評価してのことでしょう。この船中で龍馬は将来の日本のあるべき姿を描いた「船中八策」を書き起こしました。その内容とは。

上下院の設置による議会

政治有能な人材の政治への登用

不平等条約の改定

憲法制定

海軍力の増強

御親兵の設置

金銀レートの変更

これらのほとんどが明治維新以降、実際に実現したものばかり。坂本龍馬の見識の深さに驚くばかりですね。彼はすでに明治維新の前からこれらを見抜いて提言しようとしていました。特に「憲法の制定」などは龍馬の死後20年を待たなければ実現しませんでした。そして二条城にて将軍徳川慶喜による大政奉還を迎えます。長らく日本の政治を担っていた徳川将軍が、政権を天皇に返上したその時なのでした。

龍馬死す

薩長による討幕の動きが加速していく中で、龍馬は決して戦いを望んではいなかったでしょう。日本は内戦で国力を消費しているヒマはなく一刻も早く産業と貿易で国を豊かにする。その一心だったはず。しかし、龍馬は志なかばで倒れました。近江屋事件。同じ志を持つ陸援隊の中岡慎太郎と共に凶刃の前に暗殺されてしまったのです。

龍馬の無念はいかほどであったのか。新しい世の中を待ち望んでいた龍馬の気持ちが如実に表れた手紙が残っています。新政府の財政管理者として福井藩の三岡八郎を派遣してほしいとの内容でした。

「三岡の上京が一日先になったら新国家の家計(財政)の成立が一日先になってしまう」

暗殺の5日前に書かれた手紙でした。新国家建設のことまで見通していたのでしょう。

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明石則実