日本の歴史江戸時代

江戸時代の「鎖国」体制ー経緯や実態・メリットは?わかりやすく解説

江戸幕府が行った外交政策である鎖国。「国を閉ざす」と記し、他国との貿易や交通が禁止されることを示します。ポルトガル船の来航が禁止となり、オランダ商館を長崎県の出島に移して鎖国が完成したとされますが、そもそも鎖国はどういう経緯でできたのものなのでしょうか。学校の教科書からは「鎖国」の文字を消すなどの議論も出ていますが、体制の実態は?この記事では、鎖国体制の実態とこの体制によるメリットをお伝えしていきます。

キリスト教排除が目的ー鎖国完成までの流れー

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キリスト教伝来と言えば、フランシスコ・ザビエル。
日本に初めてキリスト教を伝えたのは、イエズス会のザビエルというのは有名な話ですが、このキリスト教が日本に広まったのは、ルイス・フロイスが宣教師として訪れた時代。織田信長の力が大きいと言えるでしょう。
信長がキリスト教を庇護した理由は、諸説ありますが、比叡山延暦寺に代表される強大な仏教勢力と対抗するためとも言われています。

宣教師の来航がもたらしたものは、なにもキリスト教だけではありません。貿易も活発に行われ、西欧文化を取り入れることができるとともに、日本側も利益を得ることができたのです。そのため、時の権力者たちは、キリスト教の布教を許していました

それが排除の方向に向かったのは、いつからなのでしょうか。

段階的に鎖国体制が完成される江戸時代初期

キリスト教は次第に広まっていき、教徒の数も増えていきます。
この広がりは大名も例外ではなく、特に九州ではキリシタン大名が多いのは有名ですよね。大友宗麟、有馬晴信、大村純忠など聞いたことがある人も多いのでないでしょうか。

このような中、全国統一を果たした豊臣秀吉は、「伴天連追放令」を出します。伴天連とはキリスト教の宣教師のことですね。キリスト教勢力が拡大し、結集して反乱を起こしたりすることを恐れたのです。

この流れは、徳川幕府にも受け継がれていくのですが、段階的に「鎖国」と言われるものが完成していくんですね。
幕領に禁教令、つまり幕府の直轄地にキリスト教禁止の法令がされることから始まるのですが、スペイン船の来航禁止、奉書船と呼ばれる老中の奉書を持つ船以外の渡航の禁止、長崎のみに外国船の入港を許可、そしてポルトガル船の来航禁止といった流れで鎖国が完成していくこととなります。

当時の貿易は布教とセットですので、外国船の来航そのものを禁止する方法がとられたわけですね。

・キリスト教の広がりには、織田信長の力が一役買っている
・キリスト教の拡大とともに、その力や支配を恐れた権力者たちはキリスト教禁止の方向へ向かう
貿易とキリスト教の布教はセット、そのため外国船の来航を禁止するという「鎖国体制」を段階的に完成させる

鎖国と言っても、完全に国を閉ざしてはいなかったー四つの口と対外関係ー

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さて、鎖国が完成したわけですが、すべての国との関係をシャットアウトしたというわけではないんですね。実際には「四つの口」と呼ばれる場所において、ある限られた国々との貿易が行われていました

実は筆者は、大学時代に日本近世における対外関係を学ぶ演習の授業をとっていたのですが、その際、「四つの口」について研究発表したことがあります。
その際参考文献として、荒野泰典氏の『近世日本と東アジア』(東京大学出版会、1988年)を先生から勧められたのですが、この荒野氏が「四つの口」という言葉を使用しました。

それでは、この四つの口について見ていくことにしましょう。

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近世日本と東アジア

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幕府の貿易拠点の長崎口

四つの口とは、外国に開かれた窓口です。まずは、長崎口。出島があるのが長崎ですので、もちろん幕府が管理していました。オランダと中国船が使用できる窓口になります。

さてここで、なぜオランダは許されたのか気になりますよね。「オランダもキリスト教ではないか」と思う方も多いはず。オランダももちろんキリスト教を信仰する国ではありますが、ポルトガルがカトリックに対して、オランダはプロテスタントです。

当時プロテスタント派に押され気味だったカトリック派は、熱心に布教活動を海外で行っていました。ですので、ポルトガルは布教が重要、一方のオランダは布教はなしで貿易のみでもOKというスタンスだったのです。だから、オランダとは貿易が行われたんですね。

朝鮮とアイヌとの窓口となった対馬藩、松前藩

2つ目の口は、対馬口。対馬は現在の長崎県に属している島ですが、かつては対馬藩として宗氏が治めていた土地でした。そして対馬は昔から朝鮮との交流があった場所でもあります。江戸時代にも、李氏朝鮮と外交を行っていました。

3つ目の口は、松前口。松前は現在の北海道ですね。ここを支配していたのは松前氏ですが、この藩は、蝦夷地との北方貿易を語る上で重要な拠点となります。蝦夷地は、北海道から樺太にかけての場所を差し、アイヌ民族が暮らしていた土地ですね。

琉球王国との窓口は薩摩藩

最後の4つ目の口は、琉球口もしくは薩摩口。薩摩は現在の鹿児島県、琉球は現在の沖縄県にあたる場所ですが、薩摩藩と琉球王国が貿易を行った場所になります。

当時、沖縄は琉球王国という独立国家として存在しており、中国の冊封体制下に入っていました。冊封体制とは、中国を君主として主従関係を結び、その代わりに国の統治を認めるといったものですね。そのような琉球王国ですが、薩摩藩の侵攻によって、実質的に薩摩藩の支配下に置かれます。
そのため、江戸時代の琉球王国は、中国の冊封体制下に置かれながらも、薩摩藩からの支配を受けるという二重の構造を成していたわけですね。

長崎口を除く3つの口は、いずれも見ていただいた通り、各藩が貿易を行っています。そのため、それぞれの口にあたる藩が貿易を独占しており、利益を得ていたのですね。

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みほこ