1.小林一茶の生い立ち
小林一茶(こばやしいっさ)は、幼い頃から辛い毎日を送っています。でも、後に詠んだ俳句の中には『初夢に 故郷を見て 涙かな』、初夢に故郷が出てきたという句を残しました。幼い頃に辛い思いをしても一茶もやはり人の子、「故郷」は特別な存在のようです。一茶が、どんな子供時代を過ごしたのかを見てみましょう。
1-1小林一茶の誕生
小林一茶は、宝暦13(1763)年に、信濃国水内(みのち)郡柏原(現:長野県上水内郡信濃町柏原)で、父弥五兵衛が31歳、母くにの長男として生まれています。本名は「弥太郎」で、一茶は俳号です。別に、菊明や新羅坊、亜堂などがあり、庵号には二六庵や俳諧寺があります。
一茶の家柄は中級の自作農家で、収入は6石5升あったとか。しかし、標高が高く火山灰地だったため、米はあまりとれず、アワやヒエ、蕎麦などを主に作っていたようです。一茶の母は3歳で亡くなったので、祖母かなに養育されています。しかし、その祖母も亡くなり、8歳の時に病身の父は女手がないと困ると再婚しました。
1-2折り合わない継母と一茶
再婚相手ははつといい、2年後に弟の仙六が誕生します。一茶は、はつから疎んじられる存在になってしまうのです。継母が弟の子守をさせるも、子どもの一茶は遊んでしまいます。すると仙六が泣き出し、どこからか継母が飛んできて、「弟がそんなに憎いのか。」と攻めるのです。そうして、弟を愛子ながら一茶をなじります。しかも、みんなが休んでいる時間に、「藁打ち」の仕事を押し付けられていたとか。
このように屈辱的な毎日を送るうちに、かたくなな性格に変貌し、世の中を斜め目線で見るようになりました。更に、継母は一茶を可愛がらず、次第に敵視し憎むようになったのです。
1-3丁稚奉公にだされる
一茶は15歳の時、父に「ゴタゴタが続いて困る。江戸にいってくれ」といわれます。父は一茶もこのような家庭環境では辛かろうと、一茶を江戸へ奉公にだそうと決めたのですが、一茶は父も自分が邪魔なんだと憎んだのです。最初は不安でしたが、自由になりたいという思いが強くなります。若い頃の一茶は、自分の能力を発揮できる華やかな江戸に魅力を感じたのです。田沼意次が実権を握っていた「重商主義」で、一茶にしてみれば「江戸にいって、一旗揚げてやる!」といった具合でしょうか。
安永6(1777)年春に、もうここに戻ることはないのかと思いながら、“花のお江戸”に生きがいを求め向かいます。でも、ここから10年余り、一茶の動静は不明です。
後に書いた『文政句帖』の中に、
「巣なし鳥のかなしさみはただちに塒を迷ひ、そこの軒下に露をしのぎ、かしこの家陰に霜をふせぎ、…くるしき月日送るうちに諧々たる夷ぶりの俳諧を囀りおぼゆ」
と、回想しています。
ちょっと雑学
先ほどご紹介した「初夢に 故郷を見て 涙かな」という俳句。江戸へ丁稚奉公にだされ、俳人として認められるまでの辛い時期に書いたようです。長野県信濃町小丸山公園内にある、一茶記念館の一茶像隣の石に刻まれています。
石川啄木の「ふるさとは、遠くにありて思うもの」という歌が、山河の美しい故郷を懐かしむ物として、よく比較されています。幼い頃に辛い思いをしても一茶もやはり人の子、遠い江戸にいて「家に帰りたい」と思ったのでしょう。
やはり、「故郷」は特別な存在だったようです。辛い立場に立たされると、故郷のいいところばかりを思い出し、悪いことを自然に忘れてしまうのが、人情といったところでしょう。
2.俳人となる
江戸に出た一茶は、片田舎の信州とは別世界の江戸で、カルチャーショックを受けたことは間違いないでしょう。プライドも打ちひしがれ自信を失い、大都会でどう生きたらいいかを、模索し続けたと思います。でも、帰郷できない一茶は、歯を食いしばって江戸で踏ん張らなければならなかったのです。そんな時に出会ったのが、俳句だったのでしょう。