2-1葛飾派との出会い
一茶は25歳の頃に、土臭い俳風の葛飾派に出会います。師匠は、葛飾派の古老二六庵小林竹阿(にろくあんちくあ)。竹阿は、暮らしに根差した一茶の俳句を「心に訴えかけてくるものがある」と認めており、自分の跡継ぎになるほどの才能があると踏んだのです。そして、住み込みで弟子に取り立てます。
江戸は大坂や京と並ぶ文化の中心地で、俳諧という文化も盛んでした。一茶の運が良かったのは、江戸文化の潮流とされた「わび・さび」を尊ぶ芭蕉や蕪村時代の華麗な排風が息を潜め、素朴な土臭い排風が主流となり始めたのです。一茶は、田舎っぽいことなら他に負けない。自分の時代が来たと思っていたはず。
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2-2竹阿の跡継ぎになるべく奔走ス
3年後には竹阿が亡くなります。先ほど庵号の中に「二六庵」があることをご紹介しました。これは、師匠二六庵小林竹阿の遺品の印を引き継いだからとか。これを機に、一茶は「二六庵」を継ごうと努力したり、同派の総帥溝口素丸(みぞぐちそまる)に師事し執筆となったり、複雑な俳諧師の道を歩みます。
「二六庵」の俳号は、周囲の嫉妬等により、2年で捨てる羽目になったようです。一茶は、その後宗匠となります。この頃の俳諧人は生きた情報を得るために、自分の足で歩き様々なものを見る旅をしていたのです。『奥の細道』で有名な芭蕉も、頻繁に旅をしています。
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2-3修業の旅に出る
27歳の時には東北へ修行の旅に出ます。実家を去り14年ぶりの寛政3(1791)年29歳の時にひょいと、故郷の土を踏みました。翌年からは、俳諧修行のため10年もの歴遊を始めます。この時代に旅に出るということは、かなり裕福な生活を送れていたのでしょう。竹阿の地盤の西国行脚で、近畿や四国、九州などを巡っています。この旅では、蕪村一派の、天明調や大江丸ら、上方の自由で勢いのある談林風を学ぶこともできたようです。
『たびしうゐ(旅拾遺)』という選集を創刊し、俳壇デビューを果たしました。江戸に戻った一茶は、葛飾派との縁は保ちつつ、江戸俳諧の成美、道彦、巣兆など、他の俳人たちと交流し、自身の地位確立に腐心しています。残念なことに、江戸俳諧に参入することはできなかったようです。
3.父の死と相続バトル
10年の歴遊を終え、父の病を知り看病のため故郷に留まります。父が亡くなると、遺産相続争いが勃発しますが、俳人としても活動を続けていました。相続争いでは両者とも引かず長引きます。実母の親戚たちの力を借りるなど、過激になり大きなバトルとなっていきました。
3-1父の看病をする
一茶は今でこそ名俳人といわれていますが、40歳前後は葛飾派の中でも55番目くらいで、俳句で生活するのは皆無だったようです。俳句で生計を立てられたのは、曲亭馬琴や十辺舎一九くらいだといわれています。
一茶も孤独感に追い詰められた自分を感じていたようです。俳句にも、小さな生き物が登場する句が、多くなっています。一茶の句は、誰にでも分かりやすく親しめるのが特徴です。江戸の生活に嫌気がさしていた一茶は、享和元(1801)年4月39歳で故郷へ戻ります。
そんな時、父が重い病に倒れ、床に臥せっていることを知ったのです。継母と弟が看病をしていたものの、一茶は父の看病を買って出ます。たった、1ヶ月でしたが、これまでばらばらに暮らしていた日々を取り戻すかのように献身的に看病をしました。