3-2勃発していた遺産問題
実家に居座り父のところにいってはまめまめしく世話をしますが、継母と弟は遺産を分けて貰うつもりだろうと勘ぐったのです。でも、その考えは正解でした。15歳で家を出たときに、縁切り金のようなものを、父から貰っていたのに…。
しかも、気分はどうか?とか、辛いところはないか?とかいいながら、「父さん、俺にも遺産をおくれ」と、病床の父に頼んでいたのです。完全ニート!でも、父は必死に看病する一茶にほだされ、「おまえにも残してやる」といったとか。一茶は更に、「書付に残してくれ」という始末。父も一茶の将来を心配したのか、兄弟で半分にするよう書付を書いたようです。
3-3壮絶な遺産相続争い
虫の息の父を『寝すがたの蠅追ふもけふがかぎり哉(父の終焉日記)』と俳句に残しています。30日間における看護中の父の姿や遺産問題におけるバトルを、『父の終焉日記』の中にまとめました。父が病死すると一茶は、15歳で家を出たときに相続を放棄した記憶はない。自分にも遺産を貰う権利があると主張します。主張に驚いた継母は「冗談じゃない。分けるつもりはない。」と激怒し、相続争いが勃発しました。この争いは13年に渡って続きます。
一茶は、ひとまず江戸に帰ろうと、故郷を去りました。後に、この時と15歳の時とをだぶらせたのか、『馬の子の、故郷はなるゝ秋の雨(享和句帖)』という、センチメンタルな句を書いています。
ダサい一茶の俳風は、江戸で受け入れられませんでした。文化4(1807)年ごろ、もう一度田舎に帰ります。江戸の有名な俳人が戻ってきたと、自然に門人が増え田舎でも暮らせると一茶は自身を取り戻したようです。
3-4相続争いの解決
一端江戸に戻った一茶は、翌年の11月に遺産交渉のため再び帰郷します。しかも、継母と義弟が遺産を渡さないから大損害を被った、俺の受け取るべき財産分の7年間の利子を払えというのです。
これは、生母の親戚で有力者の宮沢徳左衛門の知恵でした。しかも、この徳左衛門は、村で問題が起こると、みんなが相談に訪ねて来る存在でした。父が、死の直前に残した遺言書が功を奏したのです。
父の13回忌に、遺産の2分の1の相続権を持つ、俺はここに棲むと実家に転がり込みます。文化10(1813)年正月に、弟がとうとう和解を持ちかけました。内容は、土地屋敷家財については、父が死亡したときの半分を分ける。30両の利子は無理だが、11両2分払うというもの。徳左衛門からも、「粘っても仕方がない和解しろ」と助言を受け応じます。
4.一茶の晩年
日常の喜怒哀楽を俳句で表現する毎日を送るも、晩年も波乱万丈でした。相続争い解決後は、故郷に戻り「一茶調」という作風を確立し、名俳人の地位を確立したのです。52歳になっていた一茶は、徳左衛門の紹介でやっと結婚します。
4-1一茶結婚する
相続争いが解決し安らぎを得ると一茶は、故郷に定住します。この頃は、自然をそのまま受け入れた温かみのある句を詠んでいるようです。2年後に24歳年下で28歳のきくと結婚しました。この頃に詠んだ代表的な俳句には、『我と来て遊べや親のない雀(七番日記)』です。52歳で娘ほどの年齢の嫁を貰えたことだけでも、喜ぶべきことでしょう。でも、幸せな結婚とは、いかなかったのです。二人の間に3男1女の子どもを授かるも、次々と亡くなります。10年後には、痛風になったきくとも死に別れました。
しかも、妻が亡くなる前に、脳卒中で一茶自身も倒れ、半身不随になったのです。62歳で38歳年下の武士の娘田中雪と再婚しますが3ヶ月で離婚。直後に、脳卒中を再発し言語障害を患います。64歳の時、再々婚で3番目の妻やをと一緒になりました。
4-2一茶死ぬ
せっかく得た幸せでしたが、またまた不幸が襲いました。柏原で大火が起き住んでいる家が焼け、残った土蔵暮らしとなります。隣の家に住んでいた弟は、この時引っ越しました。
俳諧師匠として、門人の家を渡り歩き、やっと柏原の土蔵に帰宅しました。巡回指導の最中も、不明瞭な言葉を話しながら、文句ばかりいっていたとか。文政11(1828)年1月5日、門人宅から出てきた一茶は急に気分が悪くなります。そうして、念仏を一言唱え、午後4時ごろに、65歳の生涯を閉じました。
一茶の法名は「釈一茶下退位」で、小丸山の小林家一族の墓に葬られています。実は、3番目の妻やをは身籠っており、翌年4月に娘やたを生みました。一茶は、抱くことはできませんでしたが…。やたは、小林一茶家の後継ぎとして立派に成長しました。