明治時代に起きた足尾銅山鉱毒事件とは
明治時代、日本の近代化を急ぐ明治政府は産業革命に力を入れ、富国強兵を合言葉に産業の近代化を推し進めました。そのなかには鉱山採掘も含まれ栃木県西部にあった足尾銅山も活発に開発されたのです。しかし、その結果として栃木県と群馬県を流れる渡良瀬川には鉱山から排出された有害物質が鉱毒ガスとして熔け出してしまいます。その流域では鉱毒水によって中毒症状を持つ人が続出しました。これを足尾銅山鉱毒事件といいます。この足尾銅山による周辺環境に対する影響を指摘、直訴したのが田中正造でした。
しかし、田中正造らが国会で問題提起をしましたが、鉱山の所有主で銅の精錬をおこなっていた当時の古河鉱業(現古河機械金属)はそれを認めていません。そのため、足尾銅山はその後も事業継続(1980年代まで)し、鉱毒事件としての原因が古河鉱業と断定されたのははるか後の1974年になり、100年公害と言われました。東日本大震災の際には渡良瀬川下流で基準値を越えた鉛物質が検出されており、その影響は現代にまで続いています。
告発した田中正造は後に国会議員になり、明治天皇に直訴したことでも有名です。
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足尾銅山の歴史的足跡
足尾銅山は1550年に発見され、江戸時代初期に開発が進んだ鉱山で、幕府直轄の鉱山として江戸時代中頃までは大いに賑わっていたといわれています。しかし、江戸時代中頃になると採掘量が減少し、幕末には閉山状態になっていました。
明治時代になって日本の近代化の流れで復活した足尾銅山
しかし、明治時代になると明治新政府の富国強兵政策によって近代産業の振興が叫ばれるようになり、足尾銅山の価値も見直されるようになります。
悲観的な見方も多かったのですが、1877年に古河市兵衛への払い下げられ、積極的な開発姿勢によって1885年に銅の大鉱脈が発見されたのです。それ以降は、近代的な鉱山技術で鉱山開発が進み、東洋でも有数の鉱山となりました。一時は日本の銅生産の1/4を占めていたといわれています。
その反面、二酸化硫黄などの鉱毒ガスや排水に含まれる銅イオン(鉱毒)が大量に渡良瀬川流域に流れ、多大な被害をもたらすようになったのです。ただし、鉱山の問題点とその被害実態が明らかになったのは第二次世界大戦後のことでした。
最初の鉱毒被害の発生
1878年と1885年に渡良瀬川のアユが大量死しているのが発見されましたが、当時はその原因は不明とされていました。
さらに、1885年以降には足尾町の草木が枯れ始め、その原因は足尾銅山にあるという報道を下野新聞がおこなうようになります。でも、その当時はまだこの地域だけに限られたできごとでした。
また、渡良瀬川流域の田園地帯では、大雨によってダムが決壊したり、それによって洪水が発生した後に汚泥が堆積して稲が立ち枯れるという被害が続出します。そのため、農民たちが蜂起して足尾銅山に押し寄せる事件が起こるようになりました。この農民運動の中心人物が田中正造だったのです。しかも、この田園地帯の被害は渡良瀬川流域に限られず、江戸川、利根川流域でも発生して霞ヶ浦でも見られるようになり、足尾銅山の環境汚染問題は広がりを見せ始めました。
田中正造が国会で提起しても鉱毒事件は解決せず
足尾町の農民運動の中心になっていた田中正造は、新しく開設された国会の衆議院議員となり、1891年に議会で足尾銅山の環境汚染問題を取り上げ、大きな政治問題となります。その対応として、渡良瀬川などの護岸工事がおこなわれ、洪水が少なくなって一時的に被害は減少しました。しかし、古河鉱業は足尾銅山が原因になっていることを認めません。まだ環境汚染を科学的に解明する技術もなかったことから、生産を続け、その後も鉱毒被害は収まらないままに第二次世界大戦後まで続いたのです。
足尾鉱山の事業継続によって被害は戦後にも拡大
渡良瀬川の護岸工事によって洪水が減り、鉱毒被害は一時的に減少しました。しかし、渡良瀬川から農業用水を取水する群馬県の流域では銅山から排出されるカドミウムなどにより、被害はかえって増えていったのです。
足尾銅山の閉山後も精錬による被害が継続
1973年に足尾銅山の銅は堀り尽くされ、ついに閉山になりました。江戸時代からの堀進められた坑道の長さは1234kmに達していたといわれています。しかし、古河鉱業はその後も足尾での輸入鉱石の精錬事業を1980年代末まで継続したため、鉱毒はそれが終了するまで流され続け、状況は解決しませんでした。