室町時代戦国時代日本の歴史

12年で5回も激突!?信玄・謙信の激闘の歴史「川中島の戦い」をズバッと解説

戦国時代、多くの武将たちがしのぎを削る中、有名な戦としてよく名前が挙がる「川中島の戦い」。武田信玄と上杉謙信という、戦国時代を代表する猛将率いる大軍がぶつかり合った名勝負として語られることの多い合戦ですが、12年間で5回もあったといわれています。戦国屈指のライバル関係にあった武田と上杉。両雄がぶつかり合った「川中島の戦い」とはどんな戦だったのでしょう。時代背景なども含めて、詳しく解説いたします。

なぜ起きた?「川中島の戦い」までのいきさつと時代背景

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川中島の戦いとは、今から550年ほど前、戦国武将・武田信玄と上杉謙信の軍が戦った合戦の名称です。この両者は甲信越地方に広大な領地をもち、覇権を争いあうライバル関係にありました。ただ、川中島の戦いと呼ばれる合戦は合計5回も行われています。しかしいくらライバル同士とはいえ、どうしてそんな、何度も、しかも同じ場所で衝突することになってしまったのでしょうか。まずは、川中島の戦いの当事者・武田信玄と上杉謙信の関係について詳しく見ていきたいと思います。

戦国最強の武将・甲斐の虎「武田信玄」とは

武田信玄(1521年~1573年)とは、甲斐国(かいのくに・現在の山梨県)の守護大名を務めていた武田家の第19代当主です。

名前は晴信。「信玄」とは、39歳で出家したときにつけた法名なのだそうです。

織田信長が最も恐れた武将として知られる武田信玄ですが、ただの暴れん坊ではなく、戦いの名手でもありました。中国大陸の春秋時代の軍師・孫武が記したとされる「孫氏の兵法」に学び、自軍の戦法にも取り入れています。武田軍の旗印に記されている「風林火山」も、孫氏の戦法から学んだものなのだそうです。

甲斐は海に面しておらず、周囲をぐるりと他の国々に囲まれた立地。山も川も多く、もし万が一、二方向・三方向から攻め込まれたらひとたまりもありません。

お父さん・武田信虎の時代に甲斐国内の統一を果たしており、信玄はその勢いのまま、隣接する信濃(現在の長野県)へ勢力を伸ばそうとしていました。

当時の勢力図としては、東側には上杉憲政が治める上野国(こうずけのくに・現在の群馬県)、南東側には北条氏康率いる相模国(さがみのくに・現在の神奈川県)、南側には今川義元の勢力が陣取っていて、いずれも力は絶大。ただ、武田が今川と北条の仲裁を買って出たこともあり、この三国の関係は比較的安定していたと伝わっています。

相模・駿府から背後を突かれる心配がほとんどなくなった16世紀半ば頃、武田は信濃攻めに集中。その過程で発生したのが「川中島の戦い」なのです。

カリスマ軍神・越後の龍「上杉謙信」とは

上杉謙信(1530年~1578年)とは、越後国(えちごのくに・現在の新潟県)の守護大名を務めていた上杉家の第16代当主です。

もともとは、上杉家に仕えていた守護代・長尾為景の四男としてこの世に生を受けました。若いころの名前はは長尾景虎(ながおかげとら)といいます。

長尾家には兄たちがいますので、家督を継ぐことはないだろうと、幼いころから寺に預けられ、厳しい修行の日々を送っていました。謙信は幼少期から非常に優秀で、のちに「軍神」と称されるようになったその才覚は、この修業時代に培われたものと考えられています。

謙信の旗印に見られる「毘」の文字は毘沙門天(びしゃもんてん)から取ったもの。寺での修行の影響か、生涯、信仰にも熱心であったのだそうです。

実際、長尾家の家督を継いだ兄より、家臣たちの信頼は厚かったようで、19歳で兄に代わって家督を継承。主君である上杉氏からも頼られる存在となっていきます。

よく耳にする「上杉謙信」という名前は後々のもの。「謙信」はいわゆる法名です。

さて、長尾の当主として越後を統治していた若き日の謙信でしたが、1552年、上杉憲政が北条氏康に攻め込まれ、上野国から越後へ逃れてきます。これにより、謙信は相模の北条と敵対関係に。おのずと、北条と同盟関係にある武田とも敵対することとなっていきます。

この後、上杉憲政の要請もあって、若き謙信は上杉政虎(うえすぎまさとら)と改名。上杉家の家督を継ぐことになります。

武田、北条、今川といった武将たちとの関係もあり、若いころから戦に明け暮れていた上杉謙信。生涯で70回もの合戦を経験していますが、目立った敗戦は一つもないと言われています。特に城攻めには定評が。ただ、積極的に国外に侵略しようとしていたわけではなく、どちらかというと越後の国防に重きを置いていたようです。

永遠の好敵手・武田信玄と上杉謙信の関係とは

「甲斐の虎」「越後の龍」と称される両名。

激動の戦国時代、生きるか死ぬかの瀬戸際でぶつかり合いながら、信玄と謙信はお互いをどう思っていたのでしょうか。

一説には、上杉謙信は武田信玄のことを嫌っていた、とも言われています。

両者とも、ただやみくもに力で押すだけでなく、兵法を学び、巧みな戦略で勝利を重ねてきた知将。しかし当然、戦いの進め方に違いがあります。

武田信玄は若いころ、実の父を追放して家督を継承していますが、こうしたやり方が謙信には理解できなかったのでは、との説もあるそうです。

ただ、謙信が本当に信玄を嫌っていたのか、本当のところはわかりません。後世、この両名の敵対関係が物語として語られるようになり、脚色されてそのような説が誕生した可能性もあるようです。

一方で、国内の統治の進め方や戦場での戦法など、互いに尊敬しあう一面もあったといわれています。

「敵ながらあっぱれ」といったところでしょうか。

武将として一目置いていたことは間違いなさそうですが、領地を広げたい信玄からすれば謙信は邪魔な存在であり、謙信は謙信で、ちょいちょい攻め込んでくる信玄を鬱陶しいと思っていたはず。こうした関係が続いたため、川中島の戦いが5回も繰り返されたことになるのです。

戦場となった「川中島」とはどこにある?

川中島の戦いの舞台となった「川中島」とは、どんなところなのでしょう。

場所は現在の長野県の北部。長野市内にあります。千曲川と犀川、2つの河川が合流する三角地帯で、古くから複数の街道の分岐点となっていた地域です。周囲は起伏の激しい地形と大きな河川に囲まれており、平坦な道も限られてるため、軍事面でも重要な場所なっていました。

川中島の戦いは5回に渡って行われているため、戦場となった場所も広く点在しています。現在、第四次合戦のおりに武田軍団が陣を置いた八幡社は現在も鎮座。周辺一帯は公園として整備され、「川中島古戦場」として史跡・観光名所にもなっています。

合計5回もぶつかった!激闘「川中島の戦い」の全貌

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武田信玄・上杉謙信は、戦国時代という時代背景から、領地を争う敵対関係にありました。そんな中勃発したのが川中島の戦い。どんな戦いが繰り広げられたのか、第一次から第五次まで、それぞれの戦いの様子を見ていこうと思います。どちらが仕掛けたのか、勝敗も気になるところ。なお、当時はまだ、お互いに「武田晴信」「長尾景虎」という名前でしたが、今回の記事では「武田信玄」「上杉謙信」の名前で表記いたします。

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