第一次川中島の戦い(1553年):決着つかず
第一次合戦は「布施の戦い」「更科八幡の戦い」と呼ばれることもあります。
これより1~2年前のこと。武田軍は上野国の上杉憲政を破り、じわじわと信濃国を攻略し続けていました。北信濃に城を構える村上義清は、武田の攻撃に敗北し、越後の謙信を頼って逃れてきます。
若干22~3歳の若武者を頼る信濃の武将たち。「助けて」と言われて断らないのが謙信公です。すぐさま挙兵。信濃に向かい、武田に取られた城を次々と落としていきます。
一方の武田信玄、信濃の守護代や国人たちの城を攻めていたつもりだったのに、いつの間にか越後の長尾やらが攻めてきてびっくり。
謙信は武田を追っ払うつもりの進軍でしたし、信玄は謙信と戦うつもりではなかったし、お互い川中島を挟んで睨み合い小競り合い。様子を伺う程度で、大きな合戦には繋がらなかったとみられています。
第二次川中島の戦い(1555年):和睦にて終結
信濃を仕留めるには、越後が邪魔……。それでも信濃が欲しい信玄は一旦退き、北条・今川と同盟関係を結んで信濃攻めに集中するための準備を整えます。
そして信濃の南側の勢力を次々と落とし、再びじわじわと北上。これに対し謙信も再び出陣し、両軍は第一次より少し北側にあたる犀川のほとりで陣を構えます。
第二次合戦は「犀川の戦い」とも呼ばれ、両軍激しく衝突。戦いは200日以上も続いたと伝わっています。
このままでは両軍ともつぶれてしまう。駿府の今川氏が仲介に入る形で、武田が略奪した信濃の城をもとの城主に返すことで和睦が成立しました。
第三次川中島の戦い(1556年):武田の逆襲
もう武田は攻めてこないだろう、と思ったら大間違い。あの人は簡単にはあきらめません。
1556年、越後では謙信が「もう戦いに疲れた、出家する」と言って寺に引きこもるという事件が起きます。
家臣たちの必死の説得で出家は取りやめになりましたが、謙信引きこもりの噂を聞いた武田信玄がおとなしくしている訳はありません。実は和睦後も密かに攻略の機会を狙っていた信玄。チャンスとばかりにまたまた信濃に進軍を開始します。
これを知った謙信は「和睦したのに!なんなんだあの男!」と怒り爆発。またまた挙兵し、今度は第二次よりもっと北側で武田軍を迎え撃ちます。
再び激しい戦いになるかと思いきや、謙信の進軍を知っても、信玄は動こうとせず、しびれを切らした謙信はしばらくして兵を率いて撤退。「上野原の戦い」と呼ばれるこの合戦は、大きな衝突なく終わったようです。
第四次川中島の戦い(1561年):両雄一騎打ちか?
第四次合戦は「八幡原の戦い」とも呼ばれ、多くの死傷者が出る最も激しい戦いとなりました。
この少し前、1559年に、謙信は、将軍・足利義輝に上杉家の家督を継いで関東管領職に就くための許可を得るため、京都へ出かけています。
将軍の許しが出て晴れて関東管領になった謙信。北条氏が守る小田原攻めを試みますが、北条が武田に援軍を申し出たため、信玄がまたまた北信濃への侵攻を開始し、謙信の背後を突こうとします。
両軍は犀川と千曲川の真ん中あたりで激突。武田の軍師・山本勘助らによる「啄木鳥(きつつき)戦法」なる作戦が飛び出すなど、一進一退、膠着状態が続き、両軍とも多くの戦死者を出します。武田の援軍が到着したことで上杉軍は撤退しますが、武田の被害も大きく、どちらが勝利とは言えない状況でした。
真意のほどは定かでないようですが、この戦いのさなか、武田信玄と上杉謙信は直接顔を合わせ、一騎打ちがあった、と伝わっています。
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第五次川中島の戦い(1564年):しつこい信玄
まだあるのか!と言いたくなりますが、ええ、まだあります。信濃攻めはもはや、信玄のライフワークにでもなったのでしょうか。第五次合戦は「塩崎の対陣」と呼ばれています。
進軍してきた武田軍に対し、謙信はまたまた信濃に布陣。しかしこのときも信玄は直接対決を避け、塩崎城という城に陣を張って睨み合い体制に入ります。
両軍とも川中島にて2か月近く睨み合いますが、大きな合戦には至らず、しばらくして各々撤退。ちょっと出陣してみただけ、といった感じで終わったようでした。
この直後あたりから、武田軍は織田信長に急接近。今川氏との関係は冷め、東海地方へ矛先を向けるようになります。謙信も関東管領としての職務に忙しく、再び両軍が川中島で相まみえることはありませんでした。
番外編:「敵に塩を送る」の真相とは?
武田信玄と上杉謙信にまつわるエピソードに「敵に塩を送る」というものがあります。
これは川中島の戦いの少し後のこと。前述のとおり、それまで同盟関係にあった武田と今川の関係が悪化します。
武田の拠点といえば海なし国・甲斐国。海なし国最大の悩みといえば、生きるために必要となる「塩」の入手です。それまで、海なし武田は海あり今川から塩を買っていましたが、関係悪化に伴い、今川が「武田には塩を売らない」と言い出します。
困ったのは甲斐国の領民たちです。
ここで登場するのが上杉謙信。越後は日本海側に面していますので塩に不自由しません。川中島であれほど悩まされた武田に、なんと塩を送ったのです。
これだけ聞くと、上杉謙信は心が広い、義を重んじる武将だ、と思いがちですが、謙信がどう思っていたのか、よくわかっていません。
実際にはどうやら、謙信は信玄に「塩を無料で送った」のではなく「塩を売った」ようです。
つまり、他の国が武田に塩を売らなくなったのなら、越後の塩をたくさん買うだろう、と、単にビジネスチャンスだと考えたのでしょう。
上杉は今川とは特に何のしがらみもありませんでしたから、誰に義理立てする必要もありません。商売になるならそれでよし。仮に武田が「上杉からなんか買うか!」と逆切れされても、困るわけでもなし、痛くもかゆくもありません。
ただ、上杉謙信にとっては武田は鬱陶しい存在のはず。何年か前まで、和睦してもしれっと攻め込んできたり、姑息な手を使ってちょっかい出してきたり、不愉快極まりない相手だったはずです。いくらビジネスチャンスとはいえ、関わらずに放っておく手もあったのに、それでも塩を「売った」ということは……好きと嫌いは隣りあわせということでしょうか。武田信玄と上杉謙信の間には、お互いをリスペクトしあう友情のようなものが生まれていたのかもしれません。