北条氏の得宗家に生まれた北条時宗
北条時宗は、名君と呼ばれた5代執権の「北条時頼」の息子です。本当は次男なのですが、長男の「北条時輔」が側室の子だったために跡継ぎとされたのですね。本来ならば北条時頼が亡くなった時に執権になるのですが、まだ14歳だったのでならなかったのですね。しかし執権へのレールはひかれていたのですよ。
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得宗家とはなんだろう
「得宗」というのは、2代執権の「北条義時」の法名(戒名)からとったといわれていますが『吾妻鏡』にも記録されていないのでよくわかっていません。北条氏の中で執権争いがおこったことから、北条時頼の頃から嫡男が継ぐようになったのですね。
「得宗家」は歴代の執権の「時政」「義時」「泰時」「時氏」「経時」「時頼」「時宗」「貞時」「高時」の9代をを総称するのですね。執権は得宗家の跡継ぎが幼少の時などの例外(4代執権の「北条経時」は若くして亡くなったので入っている史料とないものがあり)には、最後の16代執権の「北条守時」など北条家庶流の人がなることもあったのですね。
北条時宗と北条時輔
北条時宗は建長3年(1251)5月15日、相模国鎌倉、安達氏の甘縄邸に生まれました。母親の葛西殿は北条家の重鎮の「北条重時」の娘なのに、なぜ安達家かといいますと北条時頼の母親(祖母)の松下禅尼が安達家の出身だからですね。
異母兄で側室の子である北条時輔は、宝治2年(1248)5月28日に生まれていますが、北条時頼は正室の子と側室の子の区別(差別ではなかったみたい)をかなり厳しくしていたようですね。自分の就任の時のことを考えているのかもしれませんが、武家のしきたりで正室と側室の子を区別するのはよくある話ではありますね。北条時頼は北条時宗が5歳の時に出家して執権を辞めてしまいました。そのために北条重時の息子である「北条長時」が執権になります。
康元2年(1257)7歳という年齢なのに、将軍御所にて征夷大将軍・宗尊親王の烏帽子親で元服。「宗」の1字を賜って「時宗(ときむね)」となりますよ。「安達泰盛」が烏帽子を運ぶ役目をして一門・得宗被官・公家などが列席し盛大な式となりました。北条時輔も建長8年(1256)9歳で元服しましたが、烏帽子親は室町幕府を作る「足利尊氏」の曽祖父(足利家は源氏一族の有力御家人ではありますが)がなるという規模が小さくて、北条の次期棟梁は北条時宗だと内外に知らしめたのですね。
幕府の実務につく北条時宗
7歳ではありますが、元服(今で言う成人式)したからには大人扱いになりますね。北条時頼は内心焦っていたのではないでしょうか?とはいえ、さすがに7歳ではどうにもなりません。10歳になってから「小侍所(こさむらいどころ)」という将軍警護をする部署に入って別当という実務に携わるようになりました。それまで別当は1人だったのですが、これが前例になって複数になったそうですよ。
元々の別当だったのは「北条実時」という2代執権北条義時の孫にあたる人です。この人は北条氏の中では珍しく野心がなく、穏やかで思慮深く教養の深い人で、隠居してから今でも残っている「金沢文庫」を作った人ですよ。はっきりいって教育係ということでしょうか?
10歳なのですが、大人になったというので結婚をします。奥さんは元服をした時に烏帽子を運んでくれた安達泰盛の妹ですよ。堀内殿とよばれています。後に「東慶寺」を建立して、江戸時代には駆け込み寺になったお寺ですね。堀内殿が夫のDVに困っている人たちを助けていたということからだそうですよ。
連署としての北条時宗
弘長3年(1263年)に父親の北条時頼が亡くなりました。そして次の年には北条長時も病気になり亡くなってしまいまったのですよ。しかしまだ北条時宗は14歳だったので、執権には北条重時の弟の「北条政村」が7代執権になり、北条時宗は連署(執権補佐役)になったのでした。
文永3年(1266)良好な関係だった将軍・宗尊親王が謀反を企てているということで、執権・北条政村と北条実時と共に廃位させて、京ることをしていますね。役目だとしても幼い時から可愛がってくれた宗尊親王に対して複雑な気持ちが都に送還すあったのではないでしょうか。
文永5年(1268年)正月、高麗の使節が蒙古(元)からの国書「大蒙古国皇帝奉書」を持って大宰府にやってきました。高麗は日本に攻め込む軍事費負担が嫌で「海が荒れているから」「日本は野蛮だから嫌だ」などとゴネましたが、きつく皇帝の「フビライ・ハーン」に言われて、高麗国の国王書状も添えて持ってきたというのですから嫌々だったのでしょうが、そんなことは鎌倉幕府にとってわかるはずがありませんよね。
当時は国内の政治は鎌倉幕府で、国外のことは朝廷が対応するというシステムになっていたので、朝廷に回しました。実はこれが江戸時代の「ペリー来航」の時に江戸幕府がやってしまったので、明治維新に繋がってしまったという原因でもありますね。その年の3月に、北条政村は執権を辞して、北条時宗が18歳で8代目の執権となりました。
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北条時宗執権誕生
不明 – The Japanese book “Hōjō Tokimune and that Time Period Exhibition”, NHK, 2001, パブリック・ドメイン, リンクによる
北条時宗は、北条政村・安達泰盛・北条実時・平頼綱などの補佐を受けて、朝廷とは別に国書に対する協議します。元に攻め込まれて南宋(中国)から日本に逃げてきた僧侶たちなどから、蒙古の暴虐などを聞いていたので朝廷より情報は確かですね。そして異国警固体制の強化や、異国調伏の祈祷などを行わせることにしました。朝廷が作成した返書も無視して一切返事をしなかったのでした。
北条時宗と日蓮
日蓮は鎌倉時代の僧侶で、日蓮宗・法華宗の宗祖です。北条時宗の父親の北条時頼に『立正安国論』を提出して、このまま人の心がバラバラだと「天変地異・内乱・他国からの侵略がおこる」と幕府に警告していました。そのために日蓮が邪魔な、念仏の大信者の北条重時や他の宗派からの弾圧で、焼き討ちにあったり、伊豆に流されたり、襲撃を受けていたのですね。
文永11年(1274)一番槍玉にあげられていた「極楽寺良観」はじめとした他宗の僧達と、熱心な念仏信者である平頼綱は、北条時頼・北条重時の未亡人たちに働きかけて、日蓮を「佐渡流罪」という名目で逮捕をして、実は「龍の口」という処刑場で殺そうと画策しました。
それを知った北条時宗の奥さんの堀内殿は「私とあなたの子供がお腹の中にいるのに、お坊さんを殺そうなんて、なに考えているんですか!」と北条時宗を叱りつけます。お坊さんを殺したら7代に渡って呪われるという話があったからですね。頭に血が上っていた北条時宗は、あわてて処刑中止の命令を出しました。そして名目通りに佐渡流罪となったのですよ。
その後『立正安国論』の通りに北条氏の内乱(二月騒動)が起きて、蒙古襲来が近づいてきたので日蓮を赦免することになりました。佐渡から赦免されたのは日蓮と世阿弥だけといわれていて、世阿弥はすでに狂っていたので、正気で戻ってきたのは日蓮だけということですよ。
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