三国時代・三国志中国の歴史

人望だけでのし上がった「劉邦」とはどんな人物だった?わかりやすく解説

上に立つものというのは家臣をまとめるだけの力がなければなりません。しかし、裏を返せば人をまとめる能力さえあればいいところまで身分が高くなれるということにもつながっていくのです。 そんな状況を体現してくれたのが今回の主人公である劉邦でした。 今回はそんな劉邦について解説していきたいと思います。

農家の生まれとして

image by PIXTA / 2259314

劉邦は前256年に沛県郡豊県中陽里という小さな村に産まれました。

劉邦の家は土地を持っている農家の生まれであり、農家から最終的には皇帝にのし上がった人物は劉邦と明の創始者である朱元璋(洪武帝)しかいません。

(ちなみに、劉邦はある程度の土地を持っている家柄であったため、朱元璋みたいに貧しい農民ではありませんでした。)

また、母が劉邦を出産する前に夢の中で劉邦の父の上に龍が乗っている姿を見たそうで、その夢を見た次の日にそ劉邦が生まれたという。

これは王朝の創始者になる人に決まって起こる出来事であり、劉邦もその人の1人だったのかもしれません。

任客の1人に

劉邦という人物はどんな人だったのかというと非常に働くことをせずに、さらには読み書きも満足にすることができないいわゆるニートのような人だったと言われています。しかし、彼にはカリスマ性と人たらしだったと言われており多くの人に好かれていました。

劉邦は農民を継がずに任客(この場合の任客はヤクザのことではなく、武力集団のこと)の親分肌のような仕事を行なっています。

その後、そのスキルが評価されたのか縁あって泗水という地域の亭長(現在の警察署長みたいな役職)に就きましたが、劉邦は真面目に働くのを嫌い任務にも忠実ではなかったため評価はかなり低くかったとされていました。

しかし、任客としての劉邦は非常に優秀で劉邦が何か仕事で失敗したとしても家臣たちが一生懸命カバーして、さらには劉邦が飲み屋に入れば自然と人が集まり、店が満席になったといわれています。

要するに人を集めることが得意なカリスマだったのですね。

また、この頃呂公という人が劉邦を気に入り、妻を劉邦に娶らせることとなりました。この妻がのちに劉邦の妻兼片腕として辣腕を振るうことになる呂雉であったのでした。

反秦連合への参加

image by PIXTA / 49382069

こうして泗水の一下級役人となった劉邦でしたが、時代は始皇帝の時代。始皇帝の政治に堪忍袋の緒が切れた農民たちは秦に対して反抗するようになっていき、劉邦もその一員として参加するようになっていきます。

ヤケになる劉邦

劉邦は亭長の役目を任ぜられて地方役人としてせっせと働いていましたが、そんなある日秦が行っていた公共事業の人員を確保するために人夫を無理矢理引き連れて首都であった咸陽へと向かっていましたが、秦の公共事業はまさしく過酷そのもの。さらには秦は極度の法治主義であり、少しでもサボったり国に逆らったりしたら死刑なんて当たり前でした。そのため、秦の過酷な労働と刑罰を知っていた人夫たちは次々と逃亡。

もちろん、その責任は人夫を連れてきた劉邦のもとにしわ寄せが来ることになります。劉邦は責任を押し付けられることを恐れたことでやけになっていき。劉邦は浴びるように酒を飲み、酔っ払った勢いで逃亡した人夫たちを自分の任客への組み込んだりするなど国に反抗するようにもなっていきます。

こうして劉邦は役人から一転、国から睨まれる任客へ変わってしまい、劉邦は追手から逃げる生活を送らなければならなくなったのでした。

陳勝・呉広の乱

劉邦が犯罪まがいのことをおこなっていく最中、時代は刻一刻と変わっていくことになります。

紀元前210年に秦の始皇帝が崩御。秦は後継争いによって徐々に弱体化していくことになり、農民たちもここぞとばかりに反乱の動きを見せていくことになりました。

紀元前209年。農民であった陳勝と呉広は強制的に徴兵された900人の農民と共に、守備をすることになっていた地域まで向かっていたのですが、その道中で大雨に遭って道が水没。

これでは目的地まで決められた期日で到着することはできない。しかし秦の法律では決められた期日のうちにたどりつけなければいかなる理由があろうとも死刑。

もはや引くに引けない状態となってしまった陳勝と呉広は「黙って死刑になるのであれば一発逆転を狙って反乱を起こそう!」と反乱を決意。「王侯将相寧んぞ種あらんや」(王様や将軍になるためには家柄や血統によるものではなく、自分の能力によって決められるべきである)という名言を残し、いわゆる陳勝・呉広の乱が起こったのです。

この陳勝・呉広の乱は直ぐに鎮圧されてしまいましたが、その影響で各地の反乱組織が次々と蜂起。沛県のトップはこの反乱に協力するべきか否かで動揺していくことになります。

沛県のトップへ

反乱に参加するかは沛県のトップからしたら今後の全てを決める大事な選択であり、そこでトップの人は沛県の事情を知るために沛県に詳しい蕭何や曹参に対応策をたずねます。

蕭何たちは「政府から送られてきた役人が従うことはなく、そうするのであれば沛県で人望がある劉邦をトップに置いて秦に対する反乱を起こすべき」と進言。

これに納得した沛県のトップは劉邦を呼び反乱を起こそうとしますが、そんな最中で彼は劉邦を呼び込んだら自分の立場が危うくなることを危惧して劉邦を沛県の外に締め出す対応をとることに。これに反感を買った沛県の人はトップを殺害。劉邦は最初は辞退したものの、人気がある劉邦をトップに据えるべきと考えた家臣の意見を聞き入れた沛県の県令となり反乱に参加することになります。

増える有能な家臣

劉邦がとてもラッキーだったのが劉邦に味方した家臣たちが揃いも揃って有能だったこと。

劉邦をトップに据えた蕭何や曹参は漢帝国が成立した後も名宰相として漢の政治を支えていくことになります。

そして劉邦は豊という地域を手に入れた頃に名軍師と呼ぶべき人材を手に入れることに。その人こそが漢の立国を支えた名軍師の張良だったのです。

張良は元々は始皇帝に滅ぼされた国の一つである韓の家臣で始皇帝に反感を持っており、そのためかつては始皇帝の暗殺計画を実行に移すほどのテロリストとしての活動をしていました。

暗殺に失敗した後には中国の各地を転々とする日々を送ることになるのですが、この時に学ぶべき兵法を習得し、軍師としての素質を高めていたのです。

そんな張良を手に入れた劉邦はここから一気に飛躍を遂げることになるのでした。

次のページを読む
1 2 3
Share: