三国時代・三国志中国の歴史

人望だけでのし上がった「劉邦」とはどんな人物だった?わかりやすく解説

陳平の参加と離間策

劉邦が苦しい戦いを強いられているころ、劉邦の陣営には新たに陳平という参謀が加わっていました。陳平も韓信と同じく項羽に仕えていた参謀でしたが、項羽の逆鱗に触れたことによって出奔したという過去がありました。

非常史空気が読めない人物であったため家臣たちは仕官に反対していきますが、劉邦はその事を気にせず士官を承認。

陳平は劉邦の参謀となったことを受けて追い詰められた劉邦に対し離間策を用いて弱体化させることで持久戦に持ち込み項羽を弱体化させる作戦を提案します。

劉邦は陳平の策を採用し陳平に大金を与え項羽軍に対してにまぎれこませ、重臣たちが項羽に対して謀反を企んでいるという噂を流させました。

項羽はこの噂を信じ込み、家臣たちを次々と遠ざけていくようになり、項羽軍は一気に弱体化していくことになります。項羽の人望のなさと陳平の作戦勝ちといったところでしょうか。

劉邦再び敗れる

劉邦は項羽軍の弱体化を行っていきますが、劉邦軍ら兵糧不足で悩まされており、劉邦は西にへと退却することになります。

韓信の別働隊がこの頃斉を滅ぼすなど大活躍することになるのですが、軍が強かった項羽軍を倒すことは出来ず、劉邦はまたまた敗れることに。このころになると劉邦も項羽も疲れ果て天下を半分に分けることで講和。一時休戦という形となりました。

垓下の戦い

項羽が彭城に向けて撤退を始めると張良と陳平は和睦を破ってでも項羽軍を追撃し、一気に決着をつけてしまうべきだと主張していくようになります。

確かに、項羽軍はこの頃疲弊していましたのでこの時追撃すればもしかしたら勝てるかもしれません。劉邦はこの進言を受け入れ項羽との最終決着を目指して追撃を開始。

劉邦軍は韓信の別働隊と合わせて40万という大軍を結集。これに対して項羽の軍勢は10万ほどしか残っていませんでした。

項羽軍は劉邦による離間策やゲリラ戦によって疲弊しており、この頃には大きな差が生まれていたのですね。

この頃には項羽軍は楚周辺の地域しか治めておらず、敗北は決定的なものに。項羽は垓下に籠城し防戦を試みようとしますが時すでに遅しでした。

籠城したとき、四方から楚の歌を流し、楚ですら劉邦の手に落ちたと知った項羽軍は次々と兵が脱落。最終的にはわずか800人しか残っていませんでした。

項羽は闇に紛れて垓下を脱出。その途中にて江東に向かう船に出会うのですが、「故郷に合わせる顔がない」として乗ることを拒否。そして劉邦軍の追撃が来ると自ら首をはねて自害しました。

こうして5年間にわたる楚漢戦争は劉邦軍の勝利に終わったのです。

漢帝国の成立

項羽を撃破した劉邦は紀元前202年に皇帝に就任。昔は単なる荒くれ者がついに皇帝にまでなったのです。

その後、劉邦は冒頓単于との戦に敗北したり、家臣を粛清したり闇の部分も見えていくことになるのですが、劉邦の漢帝国はここから中断を挟みながら三国時代まで200年ほど続くことになるのでした。

劉邦は中国の安定に貢献した

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劉邦は楚漢戦争をうまく乗り越えさらには有能な家臣を連れたことによって中国の皇帝にまでのし上がることができました。

世の上に立つ人はやはり人望がなければならない。劉邦はそのことを体現してくれたのではないでしょうか?

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