三国時代・三国志中国の歴史

人望だけでのし上がった「劉邦」とはどんな人物だった?わかりやすく解説

項梁の配下に

名軍師を手に入れた劉邦でしたが、さすがに小県の一トップであった彼では秦を倒すことは難しく、劉邦は陳勝呉広の乱の後に反乱軍を率いることになる項梁の下につくことになります。

項梁はのちに劉邦の最大のライバルとなることになる項羽の叔父であり、この頃には項羽とともに戦っていました。

そんな項羽でしたが、そんな時に項梁が秦の鎮圧軍によって敗北。その後項羽が新しく総大将として反乱軍を指揮することになるのですが、劉邦は項羽の命令を受けて別働隊の大将として西から秦の首都である咸陽を攻めていくことに。一方で項羽は劉邦が別働隊を率いている頃破竹の勢いで秦の軍勢を倒していくことになります。

秦の滅亡

別働隊を率いることになった劉邦でしたが、劉邦は張良の策を聞き入れこっちも破竹の勢いで進んでいくことになります。

劉邦は途中に訪問した儒学者の酈食其から県令は身分を保証すると約束すれば降伏させることができるとアドバイスをして劉邦はこれを採用。実際に陳留の県令は説得に応じて降りこの地の大量の兵糧を無血で手に入れることに成功したのです。

こうして無血降伏を成功させた劉邦の軍勢は被害を受けることは少なく、軍勢を維持したまま咸陽近くの関所まで到達。最後の関所も張良の策略によって奪取し咸陽へと突入することになります。

こうして咸陽に突入したことで防衛することは不可能と感じた秦の子嬰は皇帝の証である玉璽を差し出して降伏。劉邦はこの降伏を快く受け入れ秦は滅亡することになるのです。

劉邦、漢王となる

秦を滅ぼした劉邦。しかし総大将である項羽はこのことにブチ切れてしまい、一時期劉邦を40万の兵で殲滅しようとしますが、これをグッと堪えた項羽は劉邦を漢中王に封じさせます。

しかし、漢はこの当時咸陽のさらに西にある辺境中の辺境。このことがのちに左遷の由来となるように項羽はできるだけ劉邦を厄介払いしようとしていたことがわかりました。

劉邦はこれを仕方なく承認し辺境の漢に向かうことになります。

運命の楚漢戦争

image by PIXTA / 53840172

こうして厄介払いされた劉邦でしたが、劉邦には有能な家臣とそれを率いるカリスマ性がありました。そしてそのカリスマ性をもとに項羽と対決を挑むことになるのです。

韓信の登用

中国の支配者となった項羽でしたが、項羽には人望がほとんどなく、項羽に対する反乱が勃発することになり、さらには離反者も次々と出ていくことになりました。

その離反者の中で劉邦の参謀として活躍するのがのちに『国士無双』と呼ばれることになる韓信でした。韓信は項羽に全く評価されず項羽のもとから離れ劉邦のもとに。漢に入った劉邦は

韓信を家臣に抜擢し、韓信の意見を全面的に支持します。

そして項羽が反乱軍の鎮圧に向かっている最中に項羽に対して挙兵。中原に進出しついに項羽との戦争に挑むことになるのでした。

劉邦の大敗北

中原に進出した劉邦は味方の諸侯も次々と合流していったおかげで最大57万の軍勢を率いることになります。しかし劉邦の率いる家臣は大体荒くらもの。そのこともあって非常に油断しやすい欠点がありました。

それをうまくついた項羽は劉邦の軍を次々と撃破。劉邦方の死者は10万人も及び諸侯たちも次々と降雨になびいていくことになりました。

その後も劉邦の軍は韓信によるゲリラ戦を駆使して項羽軍の兵站を攻撃していくのですが、劉邦は項羽軍に苦しめられることになりました。

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