日本の歴史鎌倉時代

「守護・地頭」とは?鎌倉時代に設置された武士のための役職を元予備校講師がわかりやすく解説

平安時代末、急速に力を増した武士たちは武士政権である平氏政権や鎌倉幕府の樹立に大きな影響を与えました。鎌倉幕府の初代将軍となった源頼朝は、弟である義経を討伐するため朝廷に守護・地頭の設置を認めさせます。この時に設置された守護・地頭とは、いったいどのようなものだったのでしょうか。今回は、守護・地頭の設置背景となった武士の台頭、設置された守護・地頭の権限、強大化した守護・地頭などについて、元予備校講師が分かりやすく解説します。

平安時代後期におきた武士の台頭

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平安時代の中期以降、朝廷は地方の政治を地方官である国司に委任します。地方豪族たちは自分たちの土地や財産を守るため武装しました。それが、武士の始まりとされます。やがて、武士たちは徐々に力を強め、摂関家や皇室の跡継ぎ争いに動員され、支配者たちから一目置かれるようになりました。平治の乱に勝利した平清盛は最高官職である太政大臣にまで上り詰めます。

武士の誕生

平安時代中期、朝廷は地方支配を地方官のトップである国司にほぼ委任するようになります。国司は決められた税額を朝廷に収めた後は、残りを自分のものとすることができました。すると、多くの国司が決められた税額以上の税を取り立てるようになります。

地方の有力者である豪族たちは、自分の財産を守るため武装するようになりました。これが、武士の始まりです。平安時代中期以降、全国各地で武士団が成立しました。武士団のトップである棟梁には、源氏や平氏など皇族の血を引く人や、藤原摂関家の血を引く人がなることがおおいですね。

朝廷は、武士たちの力を政治に利用し始めました。例えば、朝廷の警護をする滝口の武士として採用します。あるいは、地方の治安維持のため追捕使押領使に任命しました。とはいっても、平安時代中期の武士の社会的地位は低く、貴族の従者の扱いです。

保元の乱と平治の乱

1156年、最高権力者だった鳥羽法皇が病死すると、権力の座をめぐって争いが起きました。一人は崇徳上皇。もう一人は後白河天皇です。元天皇と現役天皇が最高権力者の座をめぐって争ったと考えるとわかりやすいでしょう。摂関家も二つに分裂し、家督をめぐって激しく争います。

崇徳上皇も後白河上皇も、武士たちに声をかけ自分の味方にしようとしました。源氏の大半と一部の平氏が崇徳上皇につきます。後白河上皇には平清盛源義朝が味方しました。両者は京都で激突。後白河天皇側の勝利におわりました(保元の乱)

1159年、今度は勝利した後白河上皇(保元の乱の勝利後に上皇になる)の陣営で内輪もめが起きました(平治の乱)。ライバルである源義朝を倒し、平治の乱に勝利した平清盛は後白河上皇側近のナンバー1となります。

平清盛が打ち立てた初の武士政権、平氏政権

平清盛は瀬戸内海周辺を中心に力を持った武士です。清盛は武士でありながら朝廷の最高官職である太政大臣にまでのぼり詰めました。

清盛は平氏に仕える家人たちを地頭に任命します。とはいっても、完全に武士中心の政治を行ったわけではなりません。

一族で朝廷の高位高官を独占するということは、藤原氏がこれまで行ってきたことでした。娘を天皇に嫁がせ、子を天皇に即位させることや、天皇の外祖父として政治の実権を握るのも藤原氏と同じです。

その意味で、平氏政権はのちの鎌倉幕府に比べると、武士色が濃くないともいえるでしょう。政治を独占した平氏一門は「平家にあらずんば人にあらず」と暴言を吐くほどに増長。反平氏の人びとを団結させてしまいました。

守護・地頭の設置

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平氏政権がほころびをみせると、全国各地で反平氏の動きが広がりました。中でも伊豆に流刑になっていた源義朝の子である源頼朝は、関東の武士たちを味方につけ東国を支配。朝廷にも追認させます。頼朝は後白河法皇と接近しすぎた弟義経に討伐を決意。朝廷に対し、義経討伐を口実とした守護・地頭の設置を認めさせます。

源頼朝による東国支配

源氏の嫡流である源頼朝は、平治の乱後に伊豆に流刑とされていました。1180年、後白河法皇の子である以仁王が、平氏追討の令旨を全国に発します。頼朝は以仁王の令旨を受け、反平氏の兵をあげました。

関東の武士たちの支持を集めた頼朝は、富士川の戦いで京都からやってきた平家の軍を打ち破ります。勝利した頼朝は拙速な上洛を避け、関東で地盤を固めることに専念しました。

1183年、朝廷は頼朝に対し荘園・公領の年貢を確保することと引き換えに、東国の支配権を承認します(寿永二年十月宣旨)。

朝廷が頼朝の支配を承認した地域は、東海道と東山道に属する諸国。現在でいうと関東地方と東海地方、長野県・岐阜県などにあたります。頼朝は東北と北陸を除く東日本のほぼ全域を支配下に置いたといってもよいでしょう。

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