日本の歴史鎌倉時代

「守護・地頭」とは?鎌倉時代に設置された武士のための役職を元予備校講師がわかりやすく解説

源義経追討を口実とした守護・地頭の設置

準備万端整えた頼朝は京都へ向けて軍勢を進発させました。指揮官は弟の源範頼源義経です。出兵の目的は、京都やその周辺地域を占領する源義仲(木曽義仲)の討伐でした。1184年1月、範頼と義経に率いられた軍勢は宇治川で源義仲の軍勢と激突。これに勝利しました(宇治川の戦い)。

その後、範頼・義経軍は破竹の勢いで西進。瀬戸内海に拠点を移した平氏と戦い、次々と勝利しました。そして、ついに1185年の壇ノ浦の戦い平氏を滅ぼします。平氏追討のヒーローとなったのは源義経でした。

頼朝の力を抑えたいと考えていた後白河法皇は義経に目を付け、官位を昇進させるなど味方に取り込もうとします

頼朝は、義経の存在を危険なものと考え、義経討伐を決意しました。頼朝は軍勢を京都に派遣し後白河法皇に圧力をかけ、義経追討の宣旨を出させます。さらに、頼朝は義経追討のためとして諸国に守護・地頭を設置する権限を得ました

設置当時の守護・地頭の権限

頼朝が朝廷に迫り、設置を承認させた守護・地頭とはいったいどのようなものだったのでしょうか。まず、守護は一つの国に一人だけとされました。

守護の主な仕事は3つ。一つ目は謀反人の検断。二つ目は殺害人の検断。検断とは、犯罪者の捜査、逮捕、取り調べ、裁判などをひとまとめにして表すときの言葉です。ということは、反逆者や殺人事件の犯人について捜索・逮捕・裁判する権利とまとめてあらわすこともできますね。

三つ目は大番催促。大番とは、京都や鎌倉の警備を行うこと。これら守護の三つの権限を大犯三箇条といいます。

地頭の権限は、荘園や公領内での年貢の徴収権と土地の管理権、警察権などでした。守護は原則無給でしたが、地頭は荘園・公領から得られる年貢の一部(荘園・公領ごとに異なる)を収入とすることができました。

守護・地頭の強大化

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鎌倉時代に設置された守護や地頭は、時代がたつごとに力を強めました。守護は大犯三箇条だけではなく、一国を支配する守護大名へと成長します。地頭は、荘園への支配権を強めますが、守護の権限強化とともに地頭の影響力は低下。最終的に、他の地侍と同じように国人へと変化しました。

承久の乱と新補地頭

源頼朝の死後、頼朝の子である頼家実朝が将軍となります。しかし、いずれも短命でした。この間、幕府内部でもしばしば争いが起きます。そのころ、京都の朝廷のトップは後鳥羽上皇でした。後鳥羽上皇は、3代将軍実朝の死によって幕府を倒すチャンスが到来したと考えます。

1221年、後鳥羽上皇は鎌倉幕府ナンバー2の職である執権職に就いていた北条義時を討伐する院宣を発しました。しかし、義時や義時の姉で頼朝の妻だった北条政子は後鳥羽上皇の先手を打って京都に軍を差し向けます。戦いは先手を取った鎌倉幕府軍が勝利しました(承久の乱)。

承久の乱後、後鳥羽上皇方についた貴族や武士の領地は没収されます。また、幕府方についた武士たちには、あらたに地頭職を与えました。承久の乱後に設置された地頭は、それ以前よりも取り分が多いので、以前の地頭と区別するため新補地頭といいます。

地頭による荘園侵略

最初は関東中心に設置されていた地頭は、鎌倉幕府が承久の乱に勝利したことにより、西日本にも設置されるようになりました。地頭は、荘園領主にかわり荘園から年貢を取り立てます。年貢の一部は地頭の利益(得分)となりました。

ところが、時に地頭が風水害などを理由に荘園領主に年貢を納めない、あるいは年貢を横領するということが頻発します。身分は荘園領主の方が高くても、実際に土地を管理しているのは地頭。なかなか、荘園領主は思うように年貢を得られなくなりました。

そこで、荘園領主は地頭と話し合いをします。解決方法は二つありました。一つは地頭請所の契約を結ぶという方法。荘園領主は荘園の全ての管理を地頭に委ねるかわりに、荘園領主は必ず年貢を納めるという新契約をむすびました。

もう一つは下地中分。荘園の土地を完全に二つに分け、一方を荘園領主が、もう一方を地頭が支配・管理する方法。互いに干渉できなくなりますが、荘園領主は土地の所有権の一部を失います。どちらにしても、地頭にとって有利な解決でした。

守護権限の拡大と守護大名の登場

鎌倉幕府滅亡後、室町幕府が成立します。室町時代の最初の60年間は南北朝時代とも呼ばれました。朝廷が二つに分かれ長期間争ったからです。南北朝の争乱が長期化するにつれ、諸国の守護の力は増大していきました。

1340年代、幕府は刈田狼藉の検断権使節遵行権を新たに守護の職務に加えます。刈田狼藉とは、武士同士で紛争が発生した時に相手の土地の稲を力づくで奪う行為のこと。使節遵行とは幕府の判決を現地で強制執行する権利のことでした。

守護が取り締まることができる内容が増え、諸国の武士たちは徐々に守護の家臣に組み込まれていきます。その結果、鎌倉時代の守護とは違い、室町時代の守護は一国を一元的に支配するようになりました。これが守護大名です。

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