J・R・R・トールキンの『指輪物語』を解説!善と悪の狭間で人間は誘惑に勝てるのか?
- 1.『指輪物語』の著者J・R・R・トールキンとはどんな人?
- 1-1幸せ?不幸?トールキンの幼少期
- 1-2出会う人に恵まれていたトールキン
- 1-3才能の開花
- 1-4教授引退と晩年
- 2.トールキンの作品の歩み
- 2-1人気著書『指輪物語』の出版まで
- 2-2メディアの力で世界的ブームとなる
- 3.『指輪物語』のあらすじ
- 3-1「旅の仲間」のあらすじ
- 3-2「二つの塔」のあらすじ
- 3-3「王の帰還」のあらすじ
- 4.指輪の誘惑による影響
- 4-1フロドの場合
- 4-2ゴクリの場合
- 4-3サムの場合
- 5.満足感が人を幸せにする
- 5-1日常の素朴さが幸せの鍵
- 5-2無こそが悪で悪は善の欠落
- 5-3誘惑に負けることが悪を産む
- 5-4サウロンを産まない幸せの鍵
- 素朴な日常に満足すれば、誘惑に打ち勝つことは簡単なこと?
この記事の目次
1.『指輪物語』の著者J・R・R・トールキンとはどんな人?
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J・R・R・トールキンは、ホビットのようなのんびりとした生活が大好きでした。そんなトールキンが書いた『指輪物語』には、彼自身の経験も多く組み込まれています。
1-1幸せ?不幸?トールキンの幼少期
本名は、「ジョン・ロナルド・ルーアル・トールキン」です。彼は、1892年1月3日にアフリカのブルームフォンテインで、イギリスの銀行のアフリカ支店に勤務していたアーサー・トールキンとメーベル・サフィールドの長男として誕生しました。アフリカの気候に合わず体調を崩した3歳のトールキンを心配し、母は1歳の弟と3人でイギリスへ帰国。家族と離れた地で翌年2月に、リウマチ熱で父は他界しました。
父の死後に経済的な問題で、バーミンガムからセアラホールという小さな村に移りました。ホビット庄はミッドランド地方を描いたと語っていますが、小さな村での暮らしは間違いなく田舎愛を育んだようです。母はイギリス国教会からカトリックに改宗し、経済支援をしていた母方の親戚とも疎遠になりました。博学だった母は、トールキンたちに勉強や宗教について教育しており、カトリックへの信仰心は著書への神学的な影響を与え人生の支えになったようです。12歳の時に、34歳の母が糖尿病により他界し孤児になります。
1-2出会う人に恵まれていたトールキン
寛大で優しいと人望の厚いモーガン神父に、母は子供たちの後見を頼んでいました。彼は母が残した僅かな株券を増やし生活に困らないだけのお金を用意し、学校に通える下宿先も見つけます。しかし、幸せな生活ではなくモーガン神父のはからいで、14歳の時に新しい下宿先に移りました。そこで、将来の結婚相手となる19歳のイーディスと出会います。
学校生活は充実しており、友や教師にも恵まれました。文武両道でラグビー部では主将を務めたとか。元々修得していた語学は、更に深く学んだようです。
1-3才能の開花
1年浪人するもオックスフォードのエクセター・カレッジの奨学生に選ばれた秀才でした。陽気で社交的な性格のトールキンは、大学で2つのクラブに入り自分でもクラブを作るなど、陽気でおしゃべり好きなホビットのような生活を送ります。著書の挿絵に繋がる絵の才能も磨きました。卒業のころは第一次世界大戦の真最中。出征を逃れ、無事首席で卒業しました。
クリスマスに大学時代のクラブ「T.C.B.S」の4人のメンバーと、最後の出会いを満喫します。この戦争で親友2人を亡くし、その一人G.B.スミスの死因となったドイツ軍の弾に仕込まれた毒ガスを使ったケースは、『指輪物語』のサウロンの卑劣な戦い方に使われました。卒業後はトールキンも兵役に服し、戦争中にイーディスと結婚。フランスソンム県の前線での悲惨な戦争体験も、『指輪物語』の中に描かれています。
戦争中にもかかわらず優秀な成績で卒業したトールキンは、戦後の1919年に大学人として働きました。1925年には名誉あるオックスフォード大学で、言語学教授の任に就きます。ローリンソン・ボズワース記念でアングロ・サクソン語やマートン学寮で英語英文学の教授を歴任。彼の教室は優秀な人材が多く、人気もあったようです。
1-4教授引退と晩年
教授としての忙しい中執筆活動も精力的に熟しましたが、1959年に67歳で教授職を引退しました。ファンやメディアに囲まれるオックスフォードを離れ、ボーンマスへ引っ越します。妻がリウマチを発症したことも原因だったようです。残念ながら、彼女は3年後に亡くなりました。
その後は、例外的なはからいで、マートン大学寮に住みます。トールキンにとっても栄誉なことで、人懐っこく尊敬されていた彼は仲間もでき豊かな老後を過ごせたようです。1972年にはオックスフォードのマートンカレッジから名誉文学博士号を、翌年にはエディンバラでも名誉博士号を授与されます。1973年9月2日に81歳で病死しました。彼と妻のお墓は、オックスフォード市の郊外の墓地に眠っています。
2-1人気著書『指輪物語』の出版まで
1937年に児童向けに出版した『ホビットの冒険』では、オックスフォードというお堅い大学の教授が書いた、ユーモラスな登場人物の語り口調に誰もが驚いたようです。新聞紙面を賑わせ、作家たちも好意的な評価をしました。アメリカでも翌年に出版され、雑誌の「児童文学最優秀賞」に選ばれます。熱狂的なファンができるも、売れ行きはいまいちでした。
20年後の1954年にその続編『指輪物語』の三部作の内、2冊を出版します。一冊に纏めての発表を望むも、読者に読みたいとの意識を持たせたい編集者側の要望もあり、三分割されたのです。作戦は成功し1巻からバカ売れしました。
翌年3巻が出版されると、称賛と悪口に別れるも売れ行きは更に増します。宇宙的な規模で描写や光と闇の戦いをドラマチックに描いた著書は、児童書としては世界初でした。熱狂的な「トールキンファン」たちの期待通り、素晴らしい作品だったことはいうまでもありません。『ホビットの冒険』が、先に繋がる魅力があったからともいわれています。