白河天皇とはどんな人物?院政とは何なのか
白河天皇(しらかわてんのう)が生きた平安時代とは、一般的には、都が京都に移った794年から鎌倉幕府が開かれた1185年(または1192年)までのおよそ400年間のことを指します。前半は天皇中心の政治の時代、中盤は藤原氏が力による摂関政治、後半は平家が台頭した平安時代。天皇の地位を脅かさんと有力一族が次々暗躍する中、様々な政治の形が誕生します。白河天皇が即位したのは平安時代後期。いったいどんな時代だったのか、白河天皇のプロフィールを中心に覗いてみることにいたしましょう。
白河天皇が即位した平安時代後期とはどんな時代?
白河天皇が即位するより少し前の時代、西暦でいうと900年代後半から1000年代前半ごろにかけて、平安京では藤原氏という貴族の一族が強い力を持っていました。
特に藤原道長という人が、自分の娘を天皇家に嫁がせて天皇家と親戚関係を築いたり、一族の人間を摂政や関白といった地位に就かせるなどして、天皇と強いつながりを作り、どんどん勢力を広げていたのです。
実際、白河天皇より前に即位していた天皇の多くは、正室に藤原一族の娘を迎えていたり、藤原道長の子や孫であったりと、藤原氏と関係の深い人物ばかりでした。
絶大な権力を持つ藤原氏。その後の影響力を考えると乱暴に追い払うこともできませんし、かといってこのままでは、どちらが天皇かわかりません。
そんな中、白河天皇の前に即位した後三条天皇(第71代)は、藤原氏とそれほど強いつながりのない人物でした。長い目で見れば藤原氏と関係がないわけではありませんでしたが、子や孫、親戚といった関連ではなく、それまでの天皇と比べると、皆無ではないにしても藤原氏の影響を受けにくい位置にいたのです。
後三条天皇は少しずつ、藤原氏を遠ざけるような政策を打ち立てていきます。
白河天皇は、藤原氏の力が少し衰えた頃に成長・即位した天皇だったのです。
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摂関政治と院政はどう違う?
日本の歴史をたどっていると必ず登場する「摂関政治」と「院政」という言葉。
この二つの違いはどこにあるのでしょうか。
大きな違いは、誰が政治の実権を握っているか、という点です。
「摂関政治(せっかんせいじ)」の主役は藤原氏といった有力貴族。天皇の血筋ではなく天皇の側近が行っていたのが摂関政治です。
「摂関」とは「摂政」と「関白」のことで、この二つにも少し違いがあります。
摂政とは、天皇が押さなかったり女性であったり病弱であったりして実際の政務を行うことができないときに、天皇に代わって政治を執り行うこと。飛鳥時代、歴代初の女帝・推古天皇に仕えた聖徳太子が摂政となったことは広く知られています。
関白の場合は、成人している天皇を補佐する役目。摂政と違い、政務はあくまでも天皇が行い、関白は天皇のアドバイザー的存在となります。「摂関家」などと呼ばれることも多い一族。この役職について栄華を誇っていたのが藤原氏です。
一方の「院政」とは、皇位を退いて上皇となった後に行っていた政治のこと。つまり、主役は元天皇。
そして、この「院政」を初めて行ったのが、白河天皇なのです。
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「天皇」「上皇」「法皇」の違いは?
白河天皇は時代を追うにつれて「白河天皇」「白河上皇」「白河法皇」と呼び方が変わっていきます。
これらは呼び方が違うだけで、異なる人物ではなく、すべて同一人物。白河天皇のことです。
では、日本の歴史上、一般的に「天皇」「上皇」「法皇」という呼び方にはどのような違いがあるのでしょうか。
「天皇」とは、現在即位している天皇の通常の呼び方です。
現在即位している天皇を今上天皇(きんじょうてんのう)と呼ぶことがありますが、ご存命のうちに「昭和天皇」「平成天皇」とお呼びするのは間違い。天皇の前に年号や称号をつけるのは、亡くなられてからです。
「上皇」という呼び方については、近年、明仁様が退位して上皇となったニュースが大きく報じられたので、ピンとくる人も多いでしょう。「上皇」とは太上天皇を略した言葉で、天皇を退位し後継に譲った後の呼び方です。
「法皇」とは、上皇が出家した場合の呼び方。現代には当てはまりませんが、昔は天皇が退位して出家することが度々ありましたので、その場合はこのように呼びます。「上皇」と「法皇」のどちらが偉いかというと、特に身分の違いはないようです。
白河天皇は、退位して政治を行ったとき「上皇」と呼ばれるようになり、その後出家して「法皇」と呼ばれるようになります。
「白河天皇」と「後白河天皇」は別人?なぜ「後」がつく?
名前が似ているのでうっかり見間違えることもありそうですが、これはまったくの別人です。
ただ、系図を見ると、二人は曽祖父・曽孫の関係にあり、まったく他人というわけでもありません。
基本的に天皇の名前とは、亡くなられた後におくられるものであり、明治以降は年号と呼び名が一致しています。しかし江戸時代以前の天皇の呼び名は様々で、必ずしも年号を呼び名としているわけではありません
天皇の名前の先頭に「後」がつくケースも、その時々によって異なる理由があるようで、何か特別なルールがあるわけではないようです。
例えば、鎌倉時代に即位した後醍醐天皇。平安時代中後期の醍醐天皇の時代の政治を理想としており、自分で「後醍醐天皇」と呼び名を決めたと伝わっています。醍醐天皇をリスペクトしていたわけですね。
後白河天皇も、白河天皇に憧れ、その後を継ぐ者という意識を強く持って「後白河」という名前を望んだと考えられています。
しかし、すべての「後〇〇天皇」が、先の天皇の思いを継承したかったかというと、一概には……。ほかにも「後」の字がつく天皇は20名以上いますが、それぞれ事情が異なると考えたほうがよいかもしれません。
天皇の名前(亡くなった後におくられるもの)については、強い思い入れがあって当人が望んだ場合もあれば、亡くなった後で、お住まいの屋敷名や地域の名前、縁のある地名などがおくられることも多かったようです。