平安時代後期の有力者・白河天皇の生涯
衰えたとはいえ、まだまだ力を持っていた藤原氏と、徐々に頭角を現し始めていた平家や源氏などの武士たち。白河天皇は院政という政治体制を盾に力を発揮していきます。白河天皇とはどんな人物だったのか、その生涯を駆け足で覗いてみることにいたしましょう。
若干二十歳で天皇に:若き日の白河天皇
白河天皇は1053年(天喜元年)、後三条天皇の第一皇子(貞仁親王)として生まれます。
母は藤原一族の出でしたが、母も母方の祖父も白河天皇がまだ幼いころに死別しており、藤原氏とのつながりは薄かったようです。
1069年には皇太子となり、1072年には後三条天皇が退位して二十歳そこそこで天皇に即位。
後三条天皇は上皇として白河天皇をサポートするつもりだったとも考えられていますが、この翌年、病で崩御してしまいます。
実のところ、後三条天皇は当初、白河天皇とは異母弟にあたる実仁親王を天皇にするつもりだったようです。しかし当時はまだ、実仁親王は2歳。いくらなんでも……ということで、とりあえず白河天皇を後継にして、後々、実仁親王を天皇にするつもりだったと考えられています。
しかし実仁親王は若くして崩御。皇位継承問題で弟たちと争うことにはなりませんでした。
早々に皇位を譲り上皇に:院政の始まり
父・後三条天皇は、藤原氏の力を弱め、天皇中心の政治を取り戻すべく奔走した人物です。白河天皇もその意思を継ぎ、天皇中心の政治を目指します。
一応、藤原一族が関白の役職についていましたが、白河天皇は寺院の建立や荘園整理など精力的に動き、藤原氏に隙を与えません。
実仁親王が亡くなった後の1086年、白河天皇は自分の実子である善仁親王(堀河天皇:第73代)を皇太子とし、その後すぐに譲位して天皇の座を退き上皇となります。このとき善仁親王はまだ8歳。白河上皇は幼い天皇のサポート役として実権を握ることに。世にいう「院政」の始まりです。
天皇がまだ幼いので、一応、摂政関白が置かれはしましたが、白河上皇の影響力の足元にも及びません。
白河上皇が院政を始めた理由はいくつかあるといわれています。
最も大きな理由は、後継者争いを起こさないようにするためと、藤原氏の影響力を弱めることにありました。
天皇が幼くても、自分自身が後ろにいれば藤原氏の影響を受ける心配もありません。また、上皇という立場で次期天皇を指名していけば、継承争いを防ぐことにもつながります。
こうして白河上皇は盤石の体制をとり、天皇の力を強めていったのです。
出家して法皇に:およそ43年間続いた院政体制
白河上皇は、京都の法勝寺をはじめ多くの寺や仏像を建立するほど、非常に熱心な仏教信者でした。
1096年、出家して法皇となります。
しかし寺の建設には莫大なお金がかかったため、財政難に。しかも寺を手厚く保護したことから、寺が権力を持つようになり、次第に政治にも口出しするようになって天皇をも脅かすようになってしまいます。
次々と難題がふりかかってきましたが、それでも白河法皇の院政は続きました。
1107年、病弱だった堀河天皇が亡くなると、孫の鳥羽天皇(第74代)が皇位を継承。さらに曾孫にあたる崇徳天皇(第75代)即位まで、およそ43年間にわたって院政をし続けたのです。
長きにわたり権力を握り続け、院政体制を貫いた白河法皇。1129年、77歳でこの世を去ります。
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息子・孫・曾孫……院政を続けた白河天皇の政治力
単に自分自身が天皇となって政務を行うだけでなく、一段上に立って天皇を指名する皇位継承権をも掌握した白河天皇。当時の人々からしたら「その手があったか!」といった感じだったのかもしれません。天皇を擁立して権力を握ろうとしていた藤原氏たちも、これにはかなわなかったはずです。大河ドラマなどではラスボスっぽい感じで描かれることの多い白河天皇ですが、院政を行ったからこそ、勢力争いなどに時間と労力を取られることなく、軍備や経済力をつけていくことができたのかもしれません。