(一)蘭学の誕生と歩み
現代では、海外の情報入手はそれほど大変なことではありませんが、これが200年以上前となると話は変わります。西洋の文化や技術、学問を習得したいと思っても情報はほとんどないし方法がない。しかも言語の違いという大きな壁が立ちはだかります。そんな時代、蘭学は日本にどのような影響を及ぼしたのか、歴史をたどってみましょう。
蘭学と出島・外交先は中国とオランダだけ
ご存じのように、江戸時代、日本は江戸幕府によって「鎖国」という体制がとられていました。
江戸時代より前の16世紀後半の頃、ポルトガルやスペインなどヨーロッパの列強諸国がこぞって大きな船を造り、新天地を目指して大海原をかける大航海時代の幕開けのころ。日本にも、いくつかのヨーロッパの船が出入りするようになっていました
特に頻繁だったのかポルトガル船。ポルトガルは貿易のほかに、キリスト教の布教という大きな目的を持ち、宣教師たちを乗せて世界各国を巡っていたのです。キリスト教はポルトガル人によって日本にももたらされます。しかし、信仰の影響は当時の天下人、豊臣秀吉の脅威となっていったことは周知のことです。
やがて江戸幕府が開かれると、幕府はごく限られた交易以外をすべて禁じ、外国とのやり取りを厳しく制限する体制をとります。交易の相手は、キリスト教との関りがない中国とオランダのみ。交易の窓口も、長崎の出島のみという限られたものに。当然、西洋の文化や学問はオランダ経由で入手、ということになります。しかも幕府の監視下、自由に手に入れることなどできません。
しかし、そんな中でも、実用的な物資の中に、オランダ語で書かれた様々な書物の類も輸入されるようになっていきます。こうして日本に入ってきたオランダ語の書物や、出島に出入りするオランダ人から伝えらえた西洋の学問を総称して「蘭学」と呼ぶのです。
「蘭」とは、オランダを漢字で書き表したときの表記「和蘭陀(和蘭、阿蘭陀とも)」に由来します。
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蘭学の種類?医学や天文学・地理・語学も
出島とは、現在の長崎県の海沿いに1634年(寛永11年)に築かれた、横幅およそ200mほどの扇型をした人工島です。この小さな島の中に、もともと平戸という地域にあったオランダ商館を移転させ、本格的な鎖国体制が始まります。
このオランダ商館は、これ以後、幕末までのおよそ200年余りの間、日本とオランダ、そして西洋の情報との懸け橋となっていったのです。
幕府によって厳しく規制されていたとはいえ、出島から入ってくる西洋の珍しく新しい学問は、日本の学者有識者の知的好奇心を大いにくすぐりました。
では、一般的に「蘭学」とはどのようなものなのでしょうか。
蘭学と聞くと、時代小説やテレビドラマの影響のせいもあって、医学や医術をイメージすることが多いと思います。もちろん、蘭学が日本の医学に与えた影響は計り知れません。しかし基本的には「から日本に伝わった西洋の学問」を「蘭学」と呼ぶため、学問の範囲は多岐に渡るのです。
医学のほかにも、天文学、物理、化学、数学、地理学、測量技術、砲術や製鉄技術、西洋の歴史や現在の外国事情、印刷や絵画の画法など、様々な学問が出島から日本中へ広がっていきます。
そして忘れてはならないのが語学。書物があっても、言葉がわからなければ習得のしようがありません。まずはオランダ語を理解することから。語学の発展が、蘭学普及の礎となっていきます。
知りたいけど読めない!蘭学創世記の苦労
蘭学が広がりを見せたのは、江戸幕府八代将軍徳川吉宗の時代だと考えられています。
吉宗が将軍職に就いたのは1716年(享保元年)から1745年(延享2年)まで。この時代、蘭学は大きく発展していきます。
吉宗は日本の各種産業の生産性向上や発展を目指していました。そこで目を付けたのが、出島から入ってくる外国の物資だったのです。
時代劇などでも、吉宗が政策のひとつとして「小石川養生所」などの医療施設を設けたことが描かれています。
医療の整備などの目的のため、吉宗は1720年(享保5)、西洋の書物の輸入を一部解禁。これによって多くの書物が日本に持ち込まれるようになりますが、当然、何が書いてあるのか全然読めません。
そんな中、特に吉宗が興味を抱いたのが、50年ほど前にオランダからもたらされたものの読める人がおらず書庫で眠っていた2冊。ドドネウスの『草木誌』と、ヨンストンの『動物図説』でした。
そこで吉宗は、青木昆陽や野呂元丈といった書物担当の家臣たちにオランダ書物の翻訳を命じます。青木昆陽はサツマイモを広めたことでも知られている人物です。
しかし、まだ辞書も何もなく、直接オランダ人と会話することもままならない時代に、未知の国の言語を理解することは至難の業。当時は、数百の単語を訳するだけで精いっぱいだったようです。
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(二)蘭学の普及と発展
小さな小さな一歩でしたが、『草木誌』と『動物図説』の翻訳は、蘭学の発展大きな影響を及ぼしました。ここから蘭学は広がりを見せ、徐々に加速していきます。多くの蘭書が翻訳されていきましたが、今回は特に影響の大きかった書物や出来事を取り上げて見ていくといたしましょう。
手探りで始まった『解体新書』の翻訳
蘭学は様々な分野で広がりを見せていきましたが、中でも特に目立ったのが医学に関する書物の翻訳でした。人の命に直結する学問や技術の導入。日本の医師や学者たちを大きく突き動かしたことは言うまでもありません。
医学書翻訳の先駆けといえば、なんといっても1774年(安永3年)の『解体新書』でしょう。
『解体新書』とは、ドイツのヨハン・アダム・クルムスが書いた人体解剖書のオランダ語版『ターヘル・アナトミア』という本をベースに、日本人によって翻訳された西洋医学に関する書籍です。
全5巻(本文4巻、解剖図1巻)。骨格や関節、内蔵、筋肉、神経など、人体の内部を詳細な図説で示したもので、刊行までに4年の歳月をかけたと伝わっています。
この作業に関わったのは、杉田玄白、前野良沢、中川淳庵、中川淳庵など、いずれも医師や植物学者として活躍していた人物。主に翻訳を担当した前野良沢は、自分の名前を書物に載せることを辞退しているため、『解体新書』といえば杉田玄白の名前が真っ先にあがることが多いようです。
現在も使われる「神経」や「動脈」といった単語は、この『解体新書』翻訳の際に作られた単語。それまでの日本の医学ではぼんやりと表現されていた症状や事象が、図説とともにしっかりと言葉で解説されるようになったのです。