幕末日本の歴史江戸時代

「蘭学」とは?オランダ伝来の西洋の学問や技術をわかりやすく解説

続け!欄日辞書の完成と翻訳チームの整備

『解体新書』刊行の後、いくつもの蘭書が翻訳され、蘭学の発展は加速していきました。

以後、医学書だけでなく、薬学や暦、地理、物理など様々な分野の蘭書が日本に伝えられていきます。蘭学の普及に伴い、従来の医術を行う医師に対して。蘭学を用いた医術を行う医師のことを「蘭方医」と呼ぶこともあったようです。

そして、オランダ語の辞書も次々と作られていきました。

それらの書籍の翻訳や発刊を手がけ、西洋の学問を研究・習得した学者のことを「蘭学者」と呼びます。

蘭学者たちの中には、私塾を開いて後継の育成に力を注いだ者も多かったようです。

前沢良沢に師事した大槻玄沢もそのうちのひとりでした。

この頃になると、通訳や翻訳を行う通詞(つうじ)という職務を担当する役人も活躍。通詞は長崎・出島に詰め、一族世襲で代々引き継ぐことが多かったようです。

シーボルト事件と蘭学の弾圧

日本人による翻訳・通訳チームの充実と平行して、出島に駐留している外国人たちの協力も、蘭学の発展の原動力となりました。

その代表が、ドイツ人の医師・シーボルト(1796年~1866年)です。

シーボルトはドイツ人でしたが、オランダ人のふりをしてオランダ船で日本にやってきます。江戸幕府からも信頼されていたようで、多くの外国人が出島から出ることを禁じられていた時代に、出島の外での診療が許されていました。

1824年には長崎に鳴滝塾を開設し、蘭医学を目指す若者たちが数多くシーボルトのもとを訪れるようになります。

しかしここで、とんでもない事件が勃発。

1828年にシーボルトが帰国する際の荷物の中に、日本の地図が入っていたのです。

江戸へ出向いたとき交流のあった学者から譲り受けた、あの伊能忠敬による『大日本沿海輿地全図』の縮図。これを国外へ持ち出そうとしたことから、シーボルトに地図を譲った高橋景保らが捕縛され、シーボルト自身も処罰されてしまいます。

地図は国防にも関わること。いくら個人的な興味だけだと主張しても通る道理がありません。

この頃から、江戸幕府の鎖国政策を批判する声が上がるようになり、そうした活動を弾圧する動きも活発になります。高野長英、渡辺崋山など蘭学に精通する人物たちが牢に入れられるという「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」なる事件も勃発。こうした動きから、日本は少しずつ幕末・開国へと進んでいくことになるのです。

江戸から明治へ・西洋学問の流入

これまで、西洋の学問は全てオランダから入ってくるものであり、西洋の学問の総称が「蘭学」でした。

1853年にアメリカの黒船が浦賀沖に現れ、翌年、日本は長年続いた鎖国状態を解いて開国となります。それに伴い、蘭学にも大きな変化が訪れることとなるのです。

江戸から明治に入ると、西洋の学問はオランダ経由のものだけでなくなります。アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなど、欧米の様々な国から、様々な学問が入ってくるようになるのです。

このように、オランダに限らず欧米諸国からもたらされた学問のことをまとめて「洋学」と呼ぶようになり、多くの書物が日本語に翻訳されていきます。

使用言語も、英語やフランス語、ドイツ語などが主流に。こうして蘭学の時代は終焉を迎えることとなるのです。

あくなき探求心が実を結ぶ~日本の近代化に欠かせない「蘭学」の世界

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漢字やカナしか見たことがない日本人にとって、オランダ語で書かれた文章は記号や図形にしか見えなかったはず。それを意味の通じる文章に訳していく作業は、まるでパズルを解くようなもので、手探り状態だったに違いありません。それでもあきらめなかった江戸時代の人々。「この本を読みたい」「なんと書いてあるのか理解したい」という強い思いが突き動かしたのでしょう。この頃の人々の努力があったからこそ、私達の今の暮らしがある、そんなことを改めて感じました。

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