小野妹子の生きた時代
小野妹子が生きた6世紀後半から7世紀前半にかけて、倭国は血縁による結びつきで役職が与えられていた氏姓制度から、大王を中心とした中央集権国家へと生まれ変わりつつありました。最大・最強の豪族である大臣(おおおみ)の蘇我馬子と協力しながら推古天皇を支え、新たな国づくりを目指したのが聖徳太子こと厩戸王です。遣隋使が派遣される前の6世紀後半の日本の様子を見てみましょう。
大きな影響力を持った蘇我氏
3世紀後半から6世紀にかけて、日本では多くの古墳がつくられました。このことから、古墳時代とよばれます。
古墳時代の日本は倭とよばれ、大王とよばれるリーダーのもと、有力な豪族たちが政治の中心を担っていました。豪族たちは血筋によって役職が与えられます。この仕組みを氏姓制度といいました。
多くの豪族たちの中で最も強い力を持っていたのが蘇我氏です。蘇我氏は、渡来人たちの力を背景に朝廷で発言力を強めます。
朝鮮半島の百済から入ってきた仏教をめぐって豪族たちが激しく争ったとき、蘇我氏は仏教受け入れ派の中心となって活動しました。
587年、蘇我馬子は対立していた仏教反対派の大連(おおむらじ)の物部守屋と戦いになります。戦いは泊瀬部(はつせべ)皇子や厩戸王(聖徳太子)らの皇族を味方につけた蘇我馬子の勝利に終わり、物部氏は滅亡しました。
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推古天皇の即位と蘇我氏のかかわり
蘇我馬子に味方した泊瀬部皇子は崇峻天皇として即位します。崇峻天皇が即位してからも政治の実権は大臣の蘇我馬子の手中にありました。
崇峻天皇は自分が操り人形に過ぎないということに強い不満を持ちます。そのことを知った蘇我馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させました。
かわって馬子が擁立したのが敏達天皇の后だった推古天皇です。推古天皇は蘇我馬子の姪にあたり、馬子としてもやりやすいと考えたのでしょう。
39歳で確実に史料から確認できる最初の女帝となった推古天皇は大臣に蘇我馬子を再任します。
しかし、このままでは馬子の独裁体制になってしまいますね。そこで、甥の聖徳太子を摂政に任じました。
こうして、豪族代表である蘇我馬子と皇族代表の聖徳太子が推古天皇の下で政治を行うという仕組みが出来上がります。
聖徳太子と蘇我馬子の政治
推古天皇の下、蘇我馬子と連立政権といってもよい状態で政治を担当した聖徳太子は天皇中心の国づくりを目指します。聖徳太子は国の精神的支柱として仏教を重視。594年には仏教興隆の詔を出しました。
603年には冠位十二階の仕組みを導入し、能力によって人材を登用できるようにします。さらに、604年には役人の心構えともいうべき憲法十七条を制定しました。
冠位十二階で登用した役人たちに、大王への服従や話し合いで決まったことを尊重すること、仏法僧の三つの宝を敬うことなど道徳的な戒めが内容として含まれます。
それまで、力を持った豪族たちが大王をないがしろにし、あまつさえ殺害することさえあったことを考えれば、役人たちの暴走を抑えることは重要なことだったでしょう。
遣隋使の派遣
小野妹子が隋に派遣されたのは聖徳太子の政策の一環でした。このころ、長い間分裂状態だった中国が隋によって統一されます。まさに、東アジアの国際関係が大きく変化していました。聖徳太子は隋と国交を結びつつ、先進的な技術や中央集権の仕組みを学ぶことで倭国の国力を高めようとしたのでしょう。聖徳太子の期待を背負って遣隋使になった小野妹子はどんな人物だったのでしょう。
冠位十二階と小野妹子の抜擢
聖徳太子が政権を担当する前、日本は豪族たちが家柄によって朝廷の役職に任じられていました。例えば、蘇我氏は大臣、物部氏は大連といった具合ですね。
しかし、これでは能力があってもよい家柄に生まれていない人は重要な役職に就くことができません。そこで、聖徳太子は家柄とは別に、能力で役人になるための仕組みを作り上げました。それが、冠位十二階です。
冠位十二階は最高の大徳から大智まで十二のランクに役人を分ける仕組みですね。ただし、蘇我氏や皇族は冠位十二階の対象から外されました。
遣隋使として抜擢された小野妹子の前半生はよくわかっていません。皇族に連なるとの説もありましたが、信ぴょう性が高いとはいえませんね。603年、聖徳太子は「大礼」の小野妹子を隋に派遣します。大礼は上から5番目の地位でした。
冠位十二階で抜擢されたところを見ると、聖徳太子は小野妹子に対して大きな期待感を持っていたのでしょう。