日本の歴史飛鳥時代

激動する東アジア情勢の中派遣された遣隋使「小野妹子」を元予備校講師がわかりやすく解説

隋の建国と国際情勢の変化

聖徳太子が政治を行う時期とほぼ同じころ、中国では隋が中国大陸を統一します。隋は均田制租庸調制府兵制といった新しい仕組みを用いて対立していた国を圧倒し、強大な帝国を作り上げました。

国内を統一した隋は周辺諸国との戦争に乗り出します。モンゴル高原にいた突厥は隋の攻撃と謀略によって二つに分断されました。朝鮮半島北部から中国東北部に勢力を伸ばしていた高句麗は隋の攻撃にさらされようとしています。

隋が朝鮮半島を征服した場合、隋が倭国に攻め込んできても何の不思議もない状態だったでしょう。聖徳太子は隋が高句麗を征服し朝鮮半島を支配下に収める前に、できるだけ有利な立場で国交を結ぼうと考えたのではないでしょうか

遣隋使の派遣

607年、聖徳太子は小野妹子を大使とする遣隋使を派遣します。

実は、中国側の記録にだけ、これに先立つ600年に遣隋使が来たという記述がありました。隋の初代皇帝である文帝は倭国からの使者に対して、倭国の仕組みはどのようなものかと尋ねます。

使者から倭国の様子を聞いた文帝は、倭国の政治が遅れたものだと感じ改めるようにと使者に伝えました。この文帝の指摘は、聖徳太子と蘇我馬子が国の仕組みを変えようと考えたきっかけになった可能性があります。

冠位十二階や憲法十七条によって国の仕組みを整えたうえで、607年に小野妹子を派遣したのでしょう。

ちなみに、603年に推古天皇は小墾田宮(おはりだのみや)に移っています。それまでの大王の居住場所に比べると、外国からの使節を迎えることが意識された宮で、のちの宮城の原型を見出すことができますね。隋に「馬鹿にされない」ための一生懸命な取り組みが伺えます。

隋の皇帝煬帝を怒らせた聖徳太子からの国書

隋の都である大興城にたどり着いた小野妹子ら遣隋使一行は時の隋の皇帝である煬帝と謁見します。

煬帝は父である文帝の跡を継いで隋の二代目皇帝となっていた人物でした。中国を統一し国内制度を整備し、偉大な皇帝とよばれた父である文帝の名声を凌ぐため煬帝は大規模土木工事や周辺諸国への遠征を企図します。

煬帝が行った大工事として大運河が有名ですが、もともと、大運河は中国南部の物資を北に運び、煬帝が行おうとしていた高句麗遠征を成功させるための取り組みでした。

この情勢下で小野妹子は煬帝に聖徳太子からの国書を提出します。国書には「日出づる処の天子、日没する処の天子に手紙を致す。恙無きや云々」と書かれていました。日が昇るところにいる日本の大王が、日が没する処にいる隋の皇帝に手紙を送ります。おげんきですか。といった内容で、へりくだって隋に服従ずる内容ではなく対等な関係を求めるものでした

この手紙を読んだ煬帝は「野蛮な手紙だ。二度と、手紙を自分に見せるな」と激怒します。

隋使の裴世清(はいせいせい)の来日

聖徳太子が小野妹子に託した手紙は煬帝を激怒させました。しかし、煬帝は朝鮮半島の高句麗を攻めようとしていたため、その背後にある倭国との関係を崩したくありません。そこで、小野妹子に返書を持たせ、使者として裴世清を倭国に遣わしました

この時、小野妹子には煬帝からの返書が託されていましたが、百済まで来たときに百済によって国書が奪われてしまいます。煬帝からの返書が対等外交ではなく、日本に従属を求める内容だったため、小野妹子が百済に盗まれて紛失したことにしてうやむやにしたという説もありますね。もしそうなら、なかなかの策士だと思います。

小野妹子は返書を奪われた責任を問われ、一時、流刑にされますが間もなく政界に復帰しました。608年、来日した裴世清を隋に送り返すための遣隋使が派遣されます。この時も小野妹子が遣隋使となりました。

中国との交流継続

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小野妹子とともに派遣された遣隋使の一行には僧侶や学者たちもいました。彼らは帰国後、日本の発展に大いに活躍します。中には大化の改新の中心人物となった中大兄皇子らに影響を与えた人物もおり、大化の改新後に役職に就くものもいました。一方、隋は618年に滅亡します。大運河建設や高句麗遠征によって民衆に大きな負担をかけたことが原因で、内乱状態に陥ったのが原因でした。日本はかわって成立した唐と交流を続けます。

大化の改新に影響を与えた遣隋使の随員たち

遣隋使一行の中には隋の制度を学ぶために派遣された学問僧や学者たちがいました。学問僧南淵請安は渡来人の家に生まれ、遣隋使として中国にわたります。

同じころに渡った学者が高向玄理でした。同じように派遣されたのが学問僧のです。彼ら3人は長期にわたって隋で研究を続けました。

618年に隋が滅んだ後も彼らは中国にとどまり、旻は632年に帰国。高向玄理と南淵請安は640年に帰国しました。

大化の改新の中心人物となった中大兄皇子と中臣鎌足は南淵請安の塾に通う途中に蘇我氏打倒の計画を練ったといわれます。

遣隋使となった彼らは隋の先進的な政治制度や隋の文化を長期の留学によってしっかりと身に着けていたと考えてよいでしょう。

645年に大化の改新が起きると、旻と高向玄理は国博士に任じられ、日本での中央集権制度確立に活躍します。

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