日本の歴史飛鳥時代

激動する東アジア情勢の中派遣された遣隋使「小野妹子」を元予備校講師がわかりやすく解説

隋の滅亡と唐の成立

遣隋使を迎えたころ、隋は最盛期にありました。隋の国運が下り坂となるのは煬帝による高句麗遠征の失敗です。高句麗は隋の大軍による攻撃を3度にわたって撃退。隋は国力を大きく損耗してしまいました。

また、物資運送のために大運河を作ったことで土木工事に駆り出された民衆の不満は高まります。高句麗遠征への失敗がきっかけとなり、隋の国内で大規模な農民反乱が勃発。各地で有力者が自立して中国は群雄割拠の状態となりました。

618年、煬帝の従兄弟である李淵は大興城を占拠。長安と改めて、唐の建国を宣言します。唐は各地で割拠していた勢力を次々と配下に収めました。煬帝は江南に逃れますが、部下の反乱によって追い詰められ殺されてしまいます。唐は再び中国全土を統一。強大な王朝として東アジアに君臨しました。

 

小野妹子の後も続いた中国との交流

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小野妹子が切り開いた中国との国交はその後も継続しました。隋の滅亡後、日本の朝廷は遣唐使の派遣を決定。遣唐使は奈良時代から平安時代にかけて継続して派遣されます。小野妹子が切り開いた外交ルートはその後も生かされました。小野妹子の墓は大阪府河内郡太子町の小高い丘だと考えられています。一方、近江国にあたる滋賀県の大津市にも小野妹子の墓とされる古墳がありますね。出自だけではなく死後も謎が多い小野妹子ですが、彼の成した業績はとても偉大なものではないでしょうか。

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