- 1.堀辰雄の生い立ちと芥川龍之介との出会い
- 1-1.筆者と堀辰雄の接点
- 1-2.複雑な生い立ちだった辰雄
- 1-3.室生犀星との出会い
- 1-4.母の死
- 1-5.芥川龍之介と親しくなる
- 2.芥川龍之介との別れと新たな出会い
- 2-1.芥川龍之介の死
- 2-2.私小説「聖家族」を発表する
- 2-3.「風立ちぬ」のモデルとなった矢野綾子との出会い
- 2-4.綾子との幸せな日々
- 2-5.再び愛する人の死に直面する辰雄
- 3.愛する多恵と人生の終章
- 3-1.加藤多恵との結婚
- 3-2.暗い戦争のさなかで…
- 3-3.愛する妻に看取られながらこの世を去る
- 4.堀辰雄の代表作品をご紹介
- 4-1.自分の思いを私小説で表現した初期の代表作【聖家族】
- 4-2.愛する人の生と死を見つめた純愛小説【風立ちぬ】
- 5.堀辰雄が書いた多くの作品群
- 5-1.若き日の堀辰雄が経験した軽井沢がテーマ【ルウベンスの偽画】
- 5-2.不器用な青年の恋愛心理を描いた【不器用な天使】
- 5-3.堀辰雄初期の名作【美しい村】
- 5-4.情熱と現実の狭間で葛藤する主人公【菜穂子】
- 今読んでも全然古さを感じさせない堀辰雄の作品
この記事の目次
1.堀辰雄の生い立ちと芥川龍之介との出会い
堀辰雄の生きざまや活躍の様子を紹介させて頂くわけですが、自称ロマンチストの筆者は「風立ちぬ」という恋愛文学作品が大好きです。そのきっかけとなったエピソードを、まずは雑話として読んでみて下さいね。
1-1.筆者と堀辰雄の接点
筆者が若かりし頃、軽井沢より少し南にある清里の観光牧場でアルバイトをしたことがありまして。アルバイト期間が終わったため、そのまま自宅へ帰っても良かったのですが、ちょっと寄り道することにしました。
JR小海線を北へ向かうと小諸駅。そして小諸から東へ向かうと軽井沢ですから、9月初めということもあって混雑していないだろうと踏んで軽井沢での宿泊を選択しました。
ほぼ2ヶ月、ほとんど散髪していなかったので髪はかなり伸び放題。ちょっと切りたいなと思ったのですが、軽井沢駅周辺にはこれといって床屋さんもありません。
そこでテクテク北の方角へ歩いていくこと20分ほど。ようやく一軒のパーマ屋さんを見つけました。そう、ヘアーサロンではなくパーマ屋さんと呼ぶにふさわしいような店構えで、昭和レトロな雰囲気たっぷりのお店でした。
AHDhdicjzmakdicj – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
他に探しても無さそうだったので、仕方なくそのパーマ屋さんで散髪してもらうことにしたのですが、世間話ついでに店主のおばあさんが軽井沢の昔の様子を色々と教えてくれたのです。
その話の中で、堀辰雄さんのエピソードもありました。すぐ近所にお住まいになられていて、よく奥様と一緒にこのパーマ屋さんへ来店されたらしく、それはたいへん仲睦まじい様子だったようですね。
その頃の堀辰雄さんは体の具合が思わしくなかったようで、それでも月に一度の来店を楽しみにされていたそう。
そんな堀辰雄さんの優しい人柄や、奥様を大事にされたところなど、やはり人を惹きつける魅力がある方だったのでしょう。実際にたくさんの作家や文芸人の方々と親交があったそうですから。そういったこともあって彼が執筆した「風立ちぬ」を手に取って読んでみようと思ったのです。
1-2.複雑な生い立ちだった辰雄
明治37年、堀辰雄は東京で生まれました。父の堀浜之助は広島藩出身の士族で、裁判所書記として勤務していました。母の志気(しげ)は名字帯刀が許されるほどの商家に生まれましたが家が没落。苦労の末に浜之助と出会ったのでした。
浜之助は地元の広島に正妻がいたため辰雄を嫡男として届け出ようとします。しかし嫡男と認められてしまえば正妻の子となることは必定でした。そこで辰雄を手放したくなかった志気は堀家を飛び出し、妹夫婦の元へ身を寄せることになりました。
辰雄4歳の時、志気は彫金師をしていた上條松吉と再婚。松吉はきっぷは良いものの、遊び好きで酒浸りの毎日を送っていたそうです。しかし志気と再婚するや人が変わったように仕事に励むようになりました。
また大変優しい存在だったらしく、血の繋がっていない辰雄に対して惜しみない愛情を注いだとのこと。やがて辰雄も本当の父だと思うようになりました。
1-3.室生犀星との出会い
学業の成績がたいへん優秀だった辰雄は、両親のバックアップもあって府立第三中学校から第一高等学校、東京帝国大学(現在の東京大学)国文学科へと進み、高校在学時にのちにロシア文学者となる神西清と出会いました。
神西とは終生にわたって親交があり、辰雄が文学の道へ進んだのも神西の存在があってこそでした。
大正12年、当時流行作家になりつつあった室生犀星を紹介され、母とともに訪問しています。室生はその時の辰雄の様子を書き留めていますね。
「或日お母さんに伴われて来た堀辰雄は、さつま絣に袴をはき、一高の制帽をかむっていた。よい育ちの息子の顔付に無口の品格を持ったこの青年は、帰るまで何の質問もしなかった。」
引用元 室生犀星「我が愛する詩人の伝記」より
室生と辰雄とは、ちょうど親子ほどの年の差がありましたが、室生は父のように接し、辰雄もまた父を慕うように師事していくのです。のちに室生夫妻は、辰雄の結婚仲人となっていますね。
1-4.母の死
ところが辰雄にとって人生を左右するほどの出来事があったのが、その年の9月のこと。アニメ映画「風立ちぬ」の中でモチーフにもなっていますが、関東大震災が東京を襲いました。
辰雄や松吉は助かったものの、母の志気は水死。二人は数日間、志気を探して隅田川の包みを歩き回ったそうです。母の亡骸を荼毘に付し、位牌には辰雄の句が刻まれました。「震。わが母もみわけぬうらみかな」辰雄の悔恨が伝わってくるようですね。
母の死について、辰雄は多くを語ることはありませんでしたが、のちに妻となる多恵に宛てた手紙がその心情を物語っていますね。絶対的な愛で自分を包んでくれた母親の存在こそが、辰雄の人間形成の根幹を為していたのかも知れません。
「そういう無批判的に仕事のあとの僕をねぎらってくれる、温かい胸が何よりなのです。ずっと前に死んだ僕のお母さんのように、又、死んだ綾子だってそうであったように。」
引用元 「昭和13年2月4日、向島より加藤多恵子宛」
1-5.芥川龍之介と親しくなる
母を亡くした直後、傷心の辰雄は、室生の紹介で芥川龍之介を紹介されています。似たような生い立ちや境遇にあった龍之介は、辰雄をことさらに可愛がり、「辰ちゃんこ」と呼んで親しく接していたそうです。
辰雄もまた、年の離れた兄のような存在として龍之介の元へ何度となく足を運びました。
母の死による心神耗弱と肋膜炎によって一時休学せざるを得なくなりますが、芥川龍之介らと親しく接することで、辰雄は明るさを取り戻していきました。
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