3.愛する多恵と人生の終章
By 663highland, CC 表示 2.5, Link
綾子の死後、鎮魂歌の意味を込めて「風立ちぬ」を書き上げた辰雄。そののち彼は歌人であり国文学者でもある折口信夫の知己を得て、その後は日本の古典や伝統文化に傾倒していきました。そして愛した人の死を乗り越え、妻となる加藤多恵と出会うことになるのです。
3-1.加藤多恵との結婚
昭和12年の夏、軽井沢に近い信濃追分に滞在していた辰雄は一人の女性と知り合います。その女性こそが加藤多恵(多恵子)。辰雄の妻となる人でした。彼女が辰雄と出会った時の回想です。
追分で「風立ちぬ」の作者として紹介された堀辰雄は、私より九つも年上で、私は自分などからは遥かに遠い処にいる、又自分などには縁の薄い人のように思っていました。無精髭をはやし、髪の毛をくしゃくしゃにして、両手を帯の間に突っ込み、背中を一寸まるくして、俯向きかげんにいつも何か考えながら歩いていた辰雄に親しみを持てなかったのは、当然なのではないかと思います。
引用元 「来し方の記」より
出会った最初は全く親しみを持てなかったというふうに書かれていますね。しかしここで辰雄と多恵の関係を取り持ったのが、亡くなった綾子の父だった透でした。
娘の遺言だった「辰ちゃんにいいお嫁さんを見つけてあげてね。」という言葉を実行したのです。
徹の奔走の結果、辰雄は多恵に求婚し、辰雄の師である室生犀星が媒酌人を務めることとなりました。そして翌年4月に挙式。その後は鎌倉に住んだり、よく知った軽井沢で滞在したり、数年は辰雄の体調も良く、奈良や京都を訪問するなど古典作品の作出のために意欲的に活動していたそうです。
3-2.暗い戦争のさなかで…
昭和16年に長編小説「菜穂子」を発表し、続いて随筆集「大和路・信濃路」を書き上げました。古代大和への憧憬と、愛する信濃への思いを綴った珠玉の作品となったのです。
太平洋戦争が激化し、空襲の危険が高まってくる中、昭和19年9月、懐かしい信濃追分へ疎開しました。その頃にはもう辰雄の病状は悪化し、すでに寝たきりの状態となっていました。
やがて戦争は終わりますが、辰雄の創作意欲がなくなることはなく、まるで最後の火を灯すかのように、その後もいくつかの作品をこの世に残しています。
3-3.愛する妻に看取られながらこの世を去る
「僕は病気のおかげで得をしてきたのだ」と辰雄は語っていたそうで、過去に多くの人たちの死を体験し、そして目の前に迫った自分の死を見つめることで、辰雄は逆境の中にありつつも喜びを感じてきたのかも知れません。
一進一退だった病状から一転。昭和28年5月、病が悪化した辰雄は愛する多恵に看取られながら、この世を去りました。享年48歳。
その後、多恵は辰雄にまつわる数多くの随筆を執筆し、多くの文人たちと交わるようになりました。また信濃追分の地で、辰雄の思い出とともに生き、96歳の長寿を全うしたのです。
4.堀辰雄の代表作品をご紹介
まず堀辰雄といえばこの小説!という代表的な作品を紹介していきましょう。堀辰雄が描く世界観を感じる入門編ですし、以下の作品があったからこそ彼の名が世に出たわけです。
4-1.自分の思いを私小説で表現した初期の代表作【聖家族】
燃ゆる頬・聖家族 (新潮文庫)
Amazonで見るこの小説に登場するのは、辰雄自身も含めて芥川龍之介、そして愛人の片山広子、その娘総子ですね。実際には龍之介を介して、辰雄は片山広子を理想の貴婦人として敬慕し、総子に淡い恋心を抱いていました。
まだ若かった辰雄の心の揺れ具合を私小説という形で描き切り、あまりに表現が的確だったためか、片山親子と断絶するきっかけとなった作品です。
4-2.愛する人の生と死を見つめた純愛小説【風立ちぬ】
風立ちぬ・美しい村 (新潮文庫)
Amazonで見るこの作品もまた、婚約者の綾子と自分とをトレースさせた私小説だといえるでしょう。重い病に冒された婚約者に付き添いながら、死とは無縁であるかのような美しい高原の情景が目に浮かぶようです。
限られた二人の時間の中で、強く「生」を意識しながら愛を貫こうとする二人の姿がとても美しく思えます。
5.堀辰雄が書いた多くの作品群
「聖家族」「風立ちぬ」以外にも、堀辰雄は実に多くの作品を執筆しています。彼の処女作から晩年に至る作品までご紹介していきましょう。