ソ連軍の対日参戦。日本へ還れなかった人々の記録
昭和20年の終戦まで、満州(現在の中国東北部)は「王道楽土」と呼ばれ、多くの日本人移民が暮らしていました。その数およそ100万人ともいわれ、激しさを増していく戦争とは無縁の生活を送っていたのでした。ところが日本の敗勢が明らかになるにつれ、戦争の足音はすぐそこまで迫っていたのです。
虎の子の関東軍が弱体化していく満州国
昭和7年、日本の傀儡国家ともいうべき満州国が誕生し、多くの日本人たちが新天地を求めて大陸へ渡っていきました。「傀儡国家」とは、いわば主導国(日本)の言いなりになる国家のことで、日本の国策に従って国の運営が行われていたのです。そして不毛の大地といわれた最果ての土地にも、多くの日本人開拓者たちが入植しました。
満州には、日本人の生命と財産を守るために【関東軍】という大部隊が駐屯していました。当時は精強さで知られ、「無敵百万関東軍」と謳われていたのです。
ところが太平洋戦争が勃発し、あまりに広い戦域で激しい戦いが繰り広げられるようになると、途端に各地で戦力不足が露呈しました。
関東軍は元来、ソ連に相対する役目を持っていましたが、ソ連とは戦争状態にはありません。そこで「満州で遊ばせるにはもったいない」ということで、次々に精強部隊が南方の戦場へ引き抜かれていったのです。
しかし、それらの部隊も南の島々で次々と玉砕を繰り返し、かつては精強を謳われた関東軍も今や張り子の虎。いわば「紙でできた虎」のように弱体化していきました。
昭和20年になって、ドイツを降したソ連がいよいよ日本へ牙を向けてくる段階になって、慌てて軍部は満州に住む18~45歳に該当する民間人たちの徴兵に手を付けました。
「根こそぎ動員」によって数だけは員数を揃えたものの、実態は戦いなどまるで素人の集団。肝心の歩兵銃ですら3人に1人が当たるか当たらないか。そんなもので圧倒的なソ連軍と戦えというのです。
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8月9日、ソ連軍満州へ侵攻。逃げ惑う避難民たち
実は関東軍は、国境付近に大部隊を集結させつつあるソ連軍の動きをキャッチしていました。そこで関東軍が取った手段は「静謐」。いわば静かに見守るということです。
この時にソ連軍の侵攻が目の前に迫っているという事実を日本人居留民たちに知らせていれば、このあと起こった悲劇は避けられたのかも知れません。しかし関東軍はそれをしませんでした。なぜなら、多くの民間人が避難を始めれば、きっとソ連軍に感づかれる。だから民間人を犠牲にしてでも、こちらの戦備が整うまで静かに見守るべきという方針でした。
作戦のためには民間人を犠牲にしてもやむを得ない。この日本軍独特の非人間的な考え方は、沖縄戦でも数々の悲劇を生みだしました。
そして8月9日、一斉に満蒙国境を越えたソ連の大軍は、あっという間に国境守備隊を蹴散らして満州の原野へ侵攻してきたのです。
この出来事に寝耳に水の日本人開拓団は、家財道具を抱えて逃避行を始めました。比較的国境近くにいた開拓団は逃げきれないと判断して集団自決し、多くの人々が歩いて逃げる中でソ連軍に追い付かれては虐殺されていきました。
1千人以上もの民間人が大量に亡くなった葛根病事件での証言がありますね。
「最後尾だから助かったんじゃないかなと思うんです。戦車というのは、ずーっと先をめがけて行きますよね。鉄砲の音が消えたなと思って、頭を持ちあげたら、戦車の上に(ソビエト軍の)女の人と男の人が機関銃で撃つのが見えて。妹は撃たれて亡くなった子どもたちの下敷きになって生きていたんですけど、いとこはそのとき亡くなった。」
引用元 NHK「終戦前日の悲劇 葛根廟事件から70年の絆」より
ようやく鉄道の駅に辿り着き、やっと列車に乗って逃げられると思った人々を失望させたのは、「軍人の家族優先」という命令でした。「軍隊は自分たちを守ってくれなかったくせに、なぜ軍人が優先されるのか?」多くの人が歯噛みして悔しがったといいます。
しかし、いつまで待っても列車は来ません。来ない列車をひたすら待つ人と、あきらめて歩いて逃げる人。その運命は残酷に分かれました。
苦しい逃避行の途中に、幼い子供を連れていけない多くの母親は、中国人たちに子供を託しました。その子供たちが成長し、後年になって中国残留孤児だと名乗り出ることになったのです。
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降伏した日本兵たちに待っていた運命
日本が無条件降伏するとともに関東軍にも停船命令が届き、8月下旬までには武装解除されました。満州国は無政府状態となって日本人居留民を守るものはいなくなり、そのために各地で悲劇が繰り返されました。
ソ連軍は、降伏した日本兵たちの内地への帰還を一切認めず、満州に残っていた工作機械や産業施設の移送を命じました。移送先はもちろんソ連国内でした。
さらには大量の旧日本軍兵士たちが貨車に押し込められ、シベリアへと送られていきました。徒歩で延々と歩かされる者も大勢いました。その数は65万人ともいわれていて、不毛な大地で強制労働を強いられることになったのです。
「我々はもう3000、4000の長い列がさ、もうくたびれきっちゃって。10日も2週間も歩かされてるから、ふらふらしながら歩いて、落伍するものもいっぱい出て来て。
激戦地で戦場になったところを歩いて、死体がいっぱいころがっているところを通り抜けて、ぼくらは無事歩いて、ハルビンから300キロか400キロかな歩かされて、牡丹江通ってハイリンの町に着いたんですよ。」
引用元 NHK「戦争証言アーカイブス」より
シベリアでの強制労働の実態
抑留された旧日本兵たちは、シベリアだけでなく、遠く離れた中央アジアにまで移送されて強制労働に従事しました。過酷な自然環境と栄養不良、そして重労働のため、体力の弱った人間は次々に亡くなっていきました。次に強制労働の実態を探ってみたいと思います。
日本人だけではなかった収容者
ソ連はそのお国柄のゆえか、広い国土のあちこちに強制収容所(ラーゲリ)を設置していました。古くはレーニンが反政府主義者隔離のために設置し、スターリンの代になって反共産主義者や政治犯、戦争捕虜などが大量に収容されるようになりました。
独ソ戦で捕虜になったドイツ兵も大勢いたらしく、その時の証言が残っていますね。
「それでね、食べるものもないでしょ。それでしょうがないから、雪ん中に草やなんかあるだろうって、それを探そうって、3、4人で探しに行ったんだよ。そしたらね、ちっちゃな小屋があったの。中見たらね、ドイツ兵がいたよ。ドイツの捕虜が3人。でね、ドイツ兵は鉄かぶと、特製の鉄帽なの。まだ、子どもなの。17、8の子どもに見えたな。それがいてね、3人だけでもってちっちゃなランプ、ロウソクみたいなランプぶらさげて、ひそひそ話してるのをぼくは見ちゃったの。」
引用元 NHK「戦争証言アーカイブス」より
日本兵よりもドイツ兵のほうがさらに過酷な扱いを受けました。血で血を洗う残酷な戦いを繰り返していた独ソ両国は、お互いに憎しみ合っていたがゆえに扱いも非人道的なものとなっていたのです。
ちなみにスターリングラードの戦いで捕虜になったドイツ兵9万人のうち、戦後になって帰国できた兵士はわずか5千人に過ぎませんでした。まさに悲劇としか言いようがありません。