寒さと空腹と。
大量の日本兵抑留者たち全員が、既に設置されてあるラーゲリに収容されたわけではありません。労働は森林伐採や土木工事、鉄道工事、農作業など、数えきれないほどありました。ですからラーゲリを日本人自らで建てねばならない場合もありました。
「当地に滞在施設もなく、早速収容所建設に取り掛かる。小山の麓に十個の穴掘り、運ばれていた丸太で根、その上に瓦の代りに乾燥草。電気、水道の施設はなく、最後に収容所周りに有刺鉄線を張り、炊事場設置と夜遅くまでに形ばかりの馬賊ふうの宿舎を十棟。中の寝具は乾燥草、ソ連の寒地に暖房施設等もなく悲劇。」
引用元 「労苦体験手記 シベリア強制抑留者が語り継ぐ労苦(抑留編)」より
冬のシベリアは零下40度もの極寒となり、旧関東軍の押収品である防寒服が支給されましたが、すきま風の吹きすさぶ粗末な収容所内は外気と変わらず、朝起きてみると隣で仲間が死んでいたことが珍しくなかったといいます。
しかも食事は粥のような薄いスープが日に2度配給されるだけ。これではいくら体力自慢の若者でもあっという間に体力を消耗してしまいます。収容者は皆一様に痩せこけていきました。
「今も食事のたびに、水のようなカーシャ(かゆ状のスープ)をすすって空腹と寒さに耐えて労働した苦痛を思い出します。早期ダモイ(帰国)できたのは、作業中の転落事故で負傷したからです。多くの同期生を失いました。残念でなりません。
ソ連は戦勝国の名の下に、国際法を無視して多数の将兵を抑留し、過酷な労働を強制しました。十分な食料も与えず、不衛生な環境の下で6万人超の将兵を死に至らしめたソ連を絶対に許せません。」
引用元 毎日新聞「千の証言」より
共産主義に洗脳されていく日本人将兵たち
ソ連の政治的イデオロギーは、収容されている旧日本軍将兵たちへも強制されていきました。いわゆる「赤化教育」というものがそれで、これまでの天皇を頂点とした日本の国の成り立ちを否定し、共産主義こそが正義だという思考を植え付けようとしたのです。
そこには、洗脳した旧日本兵たちを帰国させた後、ソ連の協力者として活動させ日本を共産主義化させようという狙いがありました。
戦後まもなく作成されたハルビン総領事館員の報告書がその実態を明らかにしており、平成30年になって外務省がその文書を公開しました。
それによると、ソ連当局は、序列を維持しながら支え合ってきた日本軍将校と兵の感情的な溝につけ込んで両者を分断し、収容所の「民主化」を宣伝。各収容所には「民主グループ」が組織され、上官たちから収容所内の実権を奪っていきました。
赤化教育に利用したのが、ソ連軍政治部が発行する抑留者向けのタブロイド紙「日本新聞」でした。編集長はイワン・コワレンコ。後に対日工作の責任者となり「闇の司祭」と呼ばれた男だったのです。
また収容所では「天皇制打倒」「祖国日本を米国の植民地化から救え」などのスローガンが派手に描かれ、レーニンやスターリンらソ連共産党指導者の肖像画が掲げられたといいますし、多くの抑留者たちは早く帰国したいがために自分の意に反して、やむなく民主運動に賛同していたといいます。
「3年目からだったと思うんだけど、軍隊の階級制度がなくなったんですよ。そして、ソ連の特別教育を受けたマルクス・レーニン主義の特別教育を受けた若い連中が、20歳過ぎのね、若い連中が天下をとるようになったんですよ。
毎晩サークルやるんですよ。そしてマルクス・レーニン主義の勉強をさせられるんだけども、そこに行かない連中は今度つるし上げ食うんですよ。」
引用元 NHK「戦争証言アーカイブス」より
こうして共産主義の影響を受け、積極的に民主運動に走るのは若い兵たちでした。階級制に縛られた日本軍の非人間的な体質に反発を覚え、かつての上官たちを帝国主義の走狗だと罵り、まるでスポンジが水を吸っていくように共産主義へ傾倒していったのでした。
抑留者たちの釈放と帰国
By Wayne Miller, Photographer (NARA record: 2083745) – U.S. National Archives and Records Administration, パブリック・ドメイン, Link
シベリアで強制労働に従事していた日本人抑留者たちは、時期は違うものの昭和22~32年にかけて段階的に帰国・復員しました。彼らが帰国したことで初めてシベリア抑留の実態が明るみになったのは皮肉としか言いようがありません。
なぜ帰国時期に差が出てきたのか?
それにしてもなぜ抑留期間に差が出てきたのでしょうか?期間が短い者でわずか2年。最も長い者で11年もの差があります。実は理由は2つ考えられるのです。
1つには広いソ連国内にラーゲリが散在していたこと。引揚港のナホトカやハバロフスクからあまりに遠い内陸にあるラーゲリでは遅々として引き揚げが進まず、いたずらに時間が過ぎてしまったこと。
そして最大の理由が、ソ連共産党に忠誠を誓った者だけが早期帰国できたという現実だったのです。ソ連当局にしてみれば、赤化教育に成功した者を活動分子として早く帰国させ、日本国内で活動させた方が都合が良いわけですね。そういった誓約引揚者は優遇し、どんどん日本へ引き揚げさせました。
中には引き揚げるためにハバロフスクへやってきた将校をわざわざ足止めさせ、そのまま監獄へ送り込んでしまうという事例もありました。これは後でわかったことですが、早く帰国したいがために、この将校の部下が「反動分子」だと将校を密告したからでした。
帰国者たちの光と影
日本を共産主義化させるというソ連当局のもくろみは果たせることはありませんでした。なぜなら、一部の誓約引揚者たちは帰国後、安保闘争やスパイ活動などに従事しましたが、多くの引揚者たちは従わなかったからです。共産党の残虐さと非人道性を嫌というほど味わった彼らには迷うほどの余地はありませんでした。
また誓約引揚者の多くは帰国後、アカ(いわゆる共産主義者)のレッテルを貼られ、まともな社会生活も送れないばかりか、長く警察当局の監視の目があるという状況下に置かれました。
シベリアでの辛苦の思いに堪え、ようやく帰国できた抑留者たちを待っていたのは、復興途上の日本でした。活字に飢えていた彼らは書籍があれば片っ端から読み、音楽に飢えていた者は明るい歌声に励まされました。
「その晩、日本のおしんこだとかね、ご飯がでるとか、日本食がそのまま出ましてね。もうソ連系が全然なくてね。日本帰って来たんだなって、そういう実感がでましたね。まあ函館上陸したんだけどね、僕ら。
で、日章旗がへんぽんと翻しね。もう何年ぶりかで見たわけで。で、日本の拡声器でずっとくるんですよ、その声が。高峰三枝子。あの歌、高峰三枝子、なんだっけな。なんだっけ。ちょっと頭からでない。それ聞いた時みんな、泣いてましたよ。」
引用元 NHK「戦争証言アーカイブス」より
日本に帰国できた者は45万人あまり、そしてシベリアの不毛な大地で命を落とした者は5万人あまり。数字上とはいえその記録は「戦争とは何なのか?」ということを私たちに問いかけているのかも知れません。
時間の経過と共に少なくなる生き証人
あの戦争が終わって74年経とうとしています。当時を知る人間はすっかり少なくなり、その記憶も風化しつつあるといえるでしょう。日本の社会も戦後世代がほとんどを占めるようになって、最近では「核兵器」や「領土を戦争で取り返す」などきな臭い言動が耳につくようになってきました。しかし戦争を体験した人々はみんな口を揃えて言いますよね。「もう戦争はやっちゃいかん」と。その言葉の重みを感じながら、我々はこれからどう暮らしていくのか?どのような道を進んでいくのか?なんだか試されているような気がしてなりません。