日本の歴史江戸時代

日本の近代化の決め手になった「日英同盟」とは?わかりやすく解説

明治維新によって日本の近代化は始まったが、当初は不平等条約などで苦しんだ時代がありました。そして、実質的に日本が近代国家として認められるきっかけを作ったのは、その不平等条約を最初に改正に応じたイギリスだったのです。そして、そのイギリスと結んだ日英同盟は、日本をアジアの近代国家として先進諸国に認めさせるきっかけにもなりました。 この日本の近代化の決め手になった日英同盟について解説します。

日英同盟とは何だったのか

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日英同盟は、1902年に日本とイギリスの間で結ばれた軍事同盟のことです。イギリスの中国清国における植民地に関する権益と日本の清国および朝鮮半島での同様の権益を認め合い、それぞれが第3国と戦争になったときには、中立を守るというものでした。

この日英同盟が結ばれた当時は、日本もイギリスもロシアの南下政策に対して強い危機感を共有しており、仮想敵国としてロシアを意識したものでした。ちょうど、東西冷戦当時にスタートした日米同盟(日米安全保障条約)と似たものでしたが、状況は圧倒的に切迫していました。

この日英同盟について詳しく見てみることにします。

日米修好通商条約以来の不平等条約の改正

日本は、ペリー来航圧力に負けて、日米修好通商条約を結び、同様の条約を欧州列強国と結んだが、それは治外法権(領事裁判権)と関税自主権で不平等な条約になっていました。明治政府は、この不平等条約の改正に取り組んだが、当初は欧米先進国は、日本がまだ、憲法も議会もない国で、近代国家とは言えないという理由で認められなかったのです。率先して反対したのはイギリスでした。

この当時のイギリスは大英帝国と呼ばれ、世界でも最強の富める国だったので、ほかの国はそれに追従したのです。

大日本帝国憲法の発布と議会の開催によって近代化の礎はできた

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1889年には、日本は伊藤博文を中心に内閣を組織して大日本帝国憲法を発布し、総選挙も実施して議会が開催されました。これによって、日本は形式的に条約改正に向けた体制が整ったのです。

この当時の不平等条約の改正の中心は治外法権になっていました。1886年にイギリスのノンマルトン号が座礁した際に、日本人客を見殺しにする事件が起き、イギリス人の船長はイギリス領事によって不問とされたのです。これには日本国民も新聞社なども大変怒り、不平等条約でも、治外法権の改正に対する国内要求が強まっていました。

1991年に外務大臣の青木周蔵はこの治外法権の改正にあと一歩までいったものの、大津事件(ロシアの皇太子が大津で若い警官に襲われた事件)によって水の泡となったのです。当時の大審院(現在の最高裁判所)の院長の児島惟謙(コジマコレカネ)は、政府の容疑者極刑要求に屈することなく、通常事件と同じ扱いにして死刑を適用しませんでした。これにはロシアの不満はあったものの、国際的には三権分立に対する日本の評価は高まったのです。

日清戦争前にイギリスと治外法権の改正に成功

日本の憲法、議会問題が解決されたことで、イギリスは、日清戦争前に日本と通商条約の再交渉に応じてくれました。外務大臣として交渉に臨んだ陸奥宗光は、1894年に日英通商航海条約を締結し、関税自主権を取り戻したのです。

最終的な関税自主権の改正は1911年だがその前に日本は近代国家と認められた

憲法を持ち、議会も持った日本は国際的にも認められるようになったことから、国際的にも日本に対する評価は高まっていたのです。陸奥宗光の努力によって治外法権という不平等の1つはこの時点で解消されました。当時の最強国であったイギリスが条約改正に応じたことから、ほかの国も条約改正に応じたのです。

日英同盟をもたらした日清戦争後の国際情勢の変化の背景

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日本は、このような国際環境の変化の中で、旧態依然とした組織しか持たない中国の清国と日清戦争に突入し、短い期間で勝利したのです。これによって、諸外国の日本に対する見方は、これまでの後進国扱いから先進近代国家という見方に変わっていきました。

日清戦争に勝った日本は国際社会に認められたが三国干渉を受ける

日本は日清戦争に勝って、下関講和会議で清国から国家予算を大きく越える莫大な賠償金を得るとともに、台湾、遼東半島などの割譲を受けました。しかし、これに対して、当時南下政策で遼東半島や朝鮮半島への進出を目指していたロシアは強い警戒感を示し、ドイツ、フランスを誘って三国干渉をおこないます。すなわち、清国の遼東半島の割譲は不相応であるとして、清国に返還するように迫ったのです。この当時のロシア、ドイツ、フランスは世界有数の大国であり、その要求は飲まざるを得ませんでした。清国に遼東半島の領有権を返還したのです。

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