- 古代メソポタミアの歴史とハンムラビ法典を定めた古バビロニア王国
- メソポタミアってどんな場所?メソポタミアの地理的条件とは
- メソポタミア南部で発達したシュメール文明
- メソポタミアを支配した古バビロニア王国とハンムラビ王
- 永遠の都とたたえられたバビロン
- メソポタミア文明の特色とハンムラビ法典の内容
- 暦や占星術、60進法の発達
- 楔形文字の使用とギルガメシュ叙事詩
- ハンムラビ法典の内容とは
- 古バビロニア王国滅亡後のメソポタミア
- カッシートやヒッタイトの台頭
- アッシリアによるオリエント統一
- アケメネス朝ペルシアによるオリエント支配
- メソポタミア文明で生まれた技術やハンムラビ法典は後世に大きな影響を与えた
この記事の目次
古代メソポタミアの歴史とハンムラビ法典を定めた古バビロニア王国
紀元前4000年頃、ティグリス・ユーフラテス川の下流域にシュメール人が都市国家をいくつも建設。シュメール文明が生まれました。その後、一度はアッカド人がメソポタミアを統一しますが、アッカド王国滅亡後に分裂。メソポタミアを再統一したのが古バビロニア王国のハンムラビ王でした。
メソポタミアってどんな場所?メソポタミアの地理的条件とは
ティグリス川とユーフラテス川の流域は荒涼とした大地が続く乾燥帯です。ティグリス川とユーフラテス川は上流に大雨が降るたびに、メソポタミアで洪水を引き起こしました。この洪水は災害であると同時に、メソポタミアに上流の栄養分のある土をもたらします。
メソポタミアの人々は、農地に川から水を引き込む灌漑設備を整備し、川がもたらす豊かな土を使った農業を行いました。そのため、メソポタミアは周辺地域と比較にならないくらい農業生産力が高い土地となり、富が蓄積します。
また、メソポタミアはエジプトと比べ周囲と地続きで侵入の妨げになる地形がなかったため、周辺民族はメソポタミアの富を狙って侵入を繰り返しました。メソポタミアは多くの民族が征服を繰り返す動乱の土地でもあったのです。
メソポタミア南部で発達したシュメール文明
メソポタミアで最初に都市文明を築いたのはシュメール人でした。シュメール人はメソポタミア南部の平野で麦やナツメヤシの栽培と家畜の飼育をおこないます。
シュメール人はウル、ウルク、ラガシュなどの都市を建設しました。都市は城壁によって囲まれ、巨大な神殿であるジッグラトが都市内部に作られます。また、シュメール人はメソポタミア文明の基盤となる楔形文字や青銅器を使用していました。
紀元前2300年頃、シュメール文明はメソポタミア北方にあったアッカド人の王国によって征服されます。しかし、アッカド王国が滅んだ後、シュメール人はウル第三王朝をたててメソポタミアを再統一しました。ウル第三王朝ではハンムラビ法典のもとになったと考えられるシュメール法典がつくられます。
メソポタミアを支配した古バビロニア王国とハンムラビ王
シュメール人の王朝であるウル第三王朝は東方のエラム人、西方のアムル人の侵入によって衰退。メソポタミアは再び分裂状態となります。その中で力をつけたのがアムル人の建てたバビロニア王国でした。
のちにできるもう一つのバビロニア王国と区別するため、古バビロニア王国、または、バビロン第一王朝といいます。古バビロニア最盛期の王が第6代のハンムラビ王でした。
ハンムラビ王はメソポタミア北方のアッシュールなども制圧してメソポタミアを再統一します。ハンムラビ王は国内を統治する官僚制と強力な軍隊を整備。灌漑用水路の建設なども行って古バビロニア王国の国力を高めました。ハンムラビ王は交易や商業を保護する一方、争いごとを裁くための基準としてハンムラビ法典を定めます。
永遠の都とたたえられたバビロン
バビロンはメソポタミア南部に建設された都市です。メソポタミア地方でもっとも繁栄した都市の一つとされました。西方からメソポタミアに侵入したアムル人はバビロンを拠点と定め勢力を拡大します。
バビロンは古バビロニア王国が滅亡した後も、繁栄を続けました。旧約聖書に登場する「バベルの塔」のバベルとはバビロンのこと。バビロンにあったジッグラトをバベルの塔と表現したのかもしれませんね。
紀元前625年、新バビロニア王国が成立すると、バビロンは首都の地位に返り咲きます。新バビロニア王ネブカドネザル2世はユダ王国を滅ぼし、ユダヤ人たちをバビロンに連行しました。これを、バビロン捕囚といいます。
ネブカドネザルがバビロンを復興させたときに作られた青く美しいイシュタル門は発掘調査を元にドイツで復元され展示されました。イシュタル門の美しい姿は、バビロンの繁栄を現代に伝えてくれますね。
メソポタミア文明の特色とハンムラビ法典の内容
古代メソポタミア文明は現代に通じる様々な技術を生み出しました。月の満ち欠けで暦を作る太陰暦、暦に使われる七曜制や天体の観測などから生み出された占星術、シュメール人の時代から使われた楔形文字で記された英雄ギルガメシュの物語。そして、ハンムラビ王が制定させたハンムラビ法典。これら、メソポタミア文明の成果をまとめます。
暦や占星術、60進法の発達
古代の人々は月の満ち欠けを元に、暦を作る技術を編み出していました。月の満ち欠けによる暦を太陰暦と言います。月が新月から満月となり、再び新月になるのにおよそ30日。これを一つのまとまり、「ひとつき」とし、1年を12ヶ月とする暦です。
また、1週を七日に区切り名前をつける七曜制もメソポタミアで行われました。太陰暦や七曜制は世界各地で行われていたと考えられますが、メソポタミアでは暦の技術が占星術と結びつきます。
占星術は星の運行や天体の観測から、国家や社会、個人の未来を予想しようとするもの。暦と連動するのもうなずけます。また、時間などで使われる60進法もメソポタミアで用いられた技術でした。