室町時代戦国時代日本の歴史

5分でわかる戦国時代のお城での暮らし!実は住んでなかった?わかりやすく解説

戦国時代のお城といえば、大坂城や安土城のような天守閣が建っていて、大名や城主はそこで城下町を見下ろしながら暮らしていたというイメージが一般的だと思います。しかしそれは戦国の世が終息し、安土桃山時代になってからのことで、戦国たけなわの頃は全くそんなことはなく、ほとんど城に住むことはなかったのです。といっても一部の戦国大名は防衛の必要性から、城にちゃんと住んでいた例はあります。そこで戦国大名たちの「城と暮らし」の関係性を解明し、彼らの「城」が時代と共にどのように変貌を遂げていったのか?またそこでの暮らしなどを詳しく解説していきましょう。

1.大名たちが政務を執った戦国時代初期の守護所とは?

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平安時代になって初めて武士という階級が興り、彼らが大きな力を持つようになると、その住まいのことを「館(やかた)」と呼ぶようになりました。館の形態は中世から近世を通じてほとんど変わらず、現在でも「屋敷」という呼び名で残っていることをご存知でしょうか。屋敷には高い壁があったり、植木があったりして外からは見えにくく、侵入者がたやすく中に入れないようにもなってますよね。もともと城というものは、この「館」という形態からスタートしたともいえますし、現在見られるような壮麗な城郭なども「館」が発展した延長線上のカタチともいえるものなのです。

1-1.お城の原点となった「館(やかた)」とは?

防御の拠点としての「城」は鎌倉時代から存在していましたが、もっぱら武士が暮らしているのは平地にある「館」でした。それなりに堀や土塁も構え、柵で囲うなど外敵からの侵入を防いでいたのです。

鎌倉時代の武士の「館」の画像はこちら

画像を見ると、周りは堀に囲まれて一本の橋くらいしか進入路はなく、門の上からでも攻撃できるような構造になっています。平地にある館でありながら戦う城としての機能もあったのですね。

1-2.「館」が発展し、守護大名の「居館(守護所)」となる

室町時代に入ると、国を治めるための「守護所(守護館とも)」という政庁が造られました。足利幕府から任命された守護大名たちは、館をさらに大きくしたような守護所で暮らし、政務を執っていたのです。

清須守護所の画像はこちら

ここまで大きな守護所ともなると、普通のお城と遜色がなくもないですが、平地にあって交通も良く、経済や流通の中心地にこうした守護所は建てられました。何より国を営む政務を大事にしたのですね。

1467~1488年の応仁の乱以後に、争乱が全国へ波及して日常的に戦いが繰り返されるまでは、こうした平地の守護所にいても十分安全だったのです。

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TT mk2投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

周防の守護大名大内氏の守護所跡【大内氏城館】

 

1360年に大内弘世によって建てられ、200年間にわたって西の京山口の中心となった守護所です。

毛利氏によって滅ぼされたあと、館跡は龍福寺となっていましたが、近年発掘調査が進んで、往時は200メートル四方の面積があったことがわかっており、土塁や門跡、地泉式庭園や石組井戸などが復元されています。

現在もなお発掘が進んでおり、続日本100名城にも指定されているため、訪れる人が多いスポットとなっていますね。

1-3.戦乱の時代に次々に滅ぼされる守護大名たち

応仁の乱を契機として全国各地へ飛び火していった争乱は、足利幕府の権威が地に墜ちたこともあり、各地にいた守護大名たちを安穏とはさせませんでした。

外敵の侵攻、あるいは後継者争い、あるいは下克上と、守護大名たちの地位を脅かす存在は枚挙に暇がありません。そうするうちに各地であえなく滅亡する守護大名たちが相次ぎました。

主に平地にあった守護所は、簡易的な防御機能はあるものの、ひとたび大軍勢の攻撃に晒されれば、ひとたまりもありませんでした。ましてや囲まれれば逃げ場すらありません。

幕府の権威を後ろ盾にしていただけに、もはや権威だけでは身が守れない世であると彼らは悟ります。生き残るためには自存自衛しかありません。身を守る術を持った守護大名だけが、戦国大名へと脱皮できたのでした。

滅ぼされた主な守護大名たち

 

加賀国(石川県)では一向一揆に追い詰められた富樫政親が守護所を追われ自害。

出雲国(島根県)では守護京極氏が追い出され、守護代の尼子経久が戦国大名化する。

尾張国(愛知県西部)では織田信友が守護所を襲い、斯波義統が自害。

周防国(山口県東部)では陶晴賢が謀反。大内義隆は支えきれず逃亡後、自害。

2.自衛能力がなければ生き残れなかった戦国時代

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戦国時代は常に戦いが繰り広げられた時代。自分から攻めるチャンスもあれば、逆に敵から攻められるピンチもあるもの。そこで各地の戦国大名たちは、自らの居場所を守るために本拠地の強化に乗り出したのでした。日本の城の形態が劇的に変化するのもその頃のことだったのです。

2-1.「麓の居館」と「山上の詰め城」

政治や経済活動を効率よく行うためには、やはり交通の便が良い平地に拠点を構えることが肝要です。そこで普段は麓にある居館で政務を執りながら、いざピンチとなるや抵抗するための防衛拠点(城)が山上に築かれるようになりました。

あまり居館から遠い場所だと意味がないので、すぐ近隣の山に築かれることが多かったようです。といっても長期間にわたって籠城するためのものではなく、あくまで一時的に抵抗するための拠点でした。俗に「詰めの城」と呼びますが、造りは非常に簡素なものになっていました。

ちなみに現在でも、平地に「根古屋」や「殿屋敷」などといった地名があり、すぐ近くの山に「城山」という名前が付けられている場合があります。それは「麓の居館」と「山上の詰め城」の名残なんですね。

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