安土桃山時代日本の歴史

秀吉と家康の最初で最後の直接対決「小牧・長久手の戦い」をわかりやすく解説

戦国の三英傑と呼ばれた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。実はこの三人のうち豊臣秀吉と徳川家康は一回本当に戦ったことがあるのです。 果たしてどんな戦いを繰り広げていたのでしょうか?今回はそんな豊臣秀吉と徳川家康の直接対決小牧・長久手の戦いついて解説していきます。

どうして秀吉と家康が直接対決をするようになったのか?

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戦国の三英傑と呼ばれることになる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。信長が本能寺の変によって倒れた1582年から3年後の1585年に小牧・長久手の戦いが起こることになります。

実はそこには当時の日本の状況と信長亡き後の織田家を巡る大きな抗争があったのでした。

信長亡き後の織田家

1582年6月2日、この日天下統一まであともう少しのところまで統一した織田信長が明智光秀の裏切りにあい、49歳の生涯を終えることとなりました。さらに、この本能寺の変では信長だけではなく信長の跡を継いで織田家をまとめるだけの才能があった長男織田信忠も妙覚寺にて討死してしまうこととなります。信長だけならまだしも家督を受け継いだ信忠までもが亡くなると必ず起こってしまうのが織田家の家督争い。

この家督争いが後の秀吉の明暗を分ける大きな転換点となったのです。

清洲会議の開催と信雄の野望

織田家の家臣達は信長の跡継ぎ決めるためにかつての本拠地である清洲に集結。織田家一の出世頭で明智光秀を山崎の戦いで討ち取った豊臣秀吉や織田家の筆頭家老であった柴田勝家を始め、池田恒興、丹羽長秀などがこの会議に参加することになりました。

この当時、織田家を継げる立場にいたのは3人。次男の織田信雄と三男の織田信孝と信忠の息子であった三法師でした。

柴田勝家は三男である織田信孝、豊臣秀吉は三法師をそれぞれ推薦。結果的には明智光秀を討ち取ったという事実がある秀吉の案が通ることになりましたが、あれちょっと待ってください。

戦国時代の世の中では家督というものは長男が亡くなれば次男、次男が亡くなれば三男の様に普通に年功序列で決まるはずなのですが、清洲会議にて決定したのはそれを大きく無視した三法師。

次男の信雄は誰からも推薦されなかったのです。

コラム1.なぜ信雄が選ばれなかったのか?

普通に考えて次男であった信雄が家督を継ぎそうなものなんですが、どうして何でしょうか?

答えはただ一つ。こいつはとんでもないほどの馬鹿なんです。

元々信雄は家督を継ぐことはありませんので伊勢の有力大名であった北畠家に養子として出されます。しかし、この信雄は何とあろうことか信長の命令もなく隣国の伊賀に進軍。勝てばいいもののよりにもよって伊賀の忍者達にボコボコにやられてしまうという信長の顔に泥を塗る様な行為を行って信長からマジギレされるというとんでもない失態を犯していました。

このこともあり、信雄は信長の息子とは思えないほどの馬鹿やろうとしてこいつに継がせるぐらいなら三男のほうがいいとして選ばれることがなかったのです。

賤ヶ岳の戦いと秀吉と信雄の対立

こうして家督は三法師と決定しましたが、これに対して柴田勝家は同意する事はなく、秀吉との対立関係を深めていきます。さらに家督として選ばれなかった信孝も徐々に秀吉と対立。利害関係が一致した勝家と信孝は秀吉に対抗するために同盟関係を締結。1583年には滋賀県の賤ヶ岳という場所で秀吉と全面対決をするまでとなります。

しかし、戦上手の秀吉に勝家は敗北。本拠地であった北ノ庄城で自害を果たし、さらに信孝も切腹を無理矢理させられるなど秀吉に対抗する勢力が全て排除されたのでした。

これにて織田家の実権は完全に秀吉が牛耳ることになったのですが、これに待ったをかけたのが信雄だったのです。

信雄は一時期は秀吉が信孝と対抗したことによって三法師の後見人として担ぎ出されたこともあったのですが、賤ヶ岳の戦いが終わると信雄は秀吉の傘下に下る様に命令。もちろん、信雄には織田家の次男というプライドがありますからこんな要請を受け入れられるはずもありません。

その結果秀吉と信雄は思い切り対立関係となってしまい、信雄はこの当時東海地方で急速に勢力を伸ばしていた徳川家と同盟関係を締結することとなったのです。

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