安土桃山時代日本の歴史

秀吉と家康の最初で最後の直接対決「小牧・長久手の戦い」をわかりやすく解説

信雄による秀吉包囲網

こうして同盟関係を締結した信雄と家康でしたが、この2家だけでは何か心許ないですね。

そのため、家康は秀吉と敵対している大名と結んで秀吉と対抗しようとしました。これを信長包囲網をもじって秀吉包囲網と呼ぶ様になるのですが、この包囲網には富山の佐々成政、四国を統一したばかりである長宗我部元親、紀州の雑賀衆、関東地方の後北条家などが参加。

これを受けて秀吉は信雄を無理矢理戦に引きずり込もうと調略を行うのですが、これに気づいた信雄はこの調略を受けた家臣を処刑。これを受けて秀吉は信雄を倒すために挙兵。

小牧・長久手の戦いの幕が上がったのです。

小牧・長久手の戦いの経過

image by PIXTA / 39295415

こうして秀吉と対立した信雄は秀吉の挙兵を受けて家康と共に挙兵。

小牧・長久手の戦いが起こることとなりました。

秀吉はこの戦いを終わらせるために犬山城を占拠して信雄と家康を追い込みます。しかし、野戦においては秀吉よりも一枚上手であった家康は秀吉の策に対して対策を打つのでした。

次はそんな小牧・長久手の戦いの経過について見ていきましょう。

両陣営の着陣

1584年、信長の乳兄弟(乳母が同じ人のこと)であり、信長古参の家臣であった池田恒興が突如秀吉に寝返り。尾張国の犬山城を占領して、ここに本陣を置きました。出鼻をくじかれた家康軍は犬山城からほど近い小牧山城を奪い取りここに着陣。犬山城と小牧山城の距離は15キロほど。

こうして両陣営はにらみ合いの状態に突入したのでした。

羽黒の戦い

犬山城を占領して尾張北部を占拠した秀吉軍でしたが、秀吉からしたら小高い山の上にある小牧山城の存在は非常に邪魔です。そこで池田恒興はこの小牧山城を占領すべく小牧山城からほど近い羽黒という地域に進出しました。

これを家康は察知。最古参の家臣である酒井忠次をはじめとした別働隊を派遣して池田恒興の軍に奇襲。突如とした奇襲攻撃に全く備えていなかった恒興の軍は壊滅的な被害を負って撤退。羽黒の戦いは家康軍の勝利に終わりました。

秀吉の出陣と膠着状態

羽黒の戦いで秀吉側の武将が敗北したことは当時大坂を本拠地としたばかりである秀吉のもとに伝えられ出陣。3月には犬山城に着陣して家康の部隊とにらみ合いを始めます。この時秀吉側の軍勢は少なくとも10万はいたとされており、家康・信雄の2万5千人をはるかに超えていたとされていました。

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