ロシアロマノフ朝

自分の信じる道を進み大帝となった「エカテリーナ2世」の生涯をわかりやすく解説

ヨーロッパの超大国ロシア。この国では大帝と呼ばれている人が2人います。1人目はロマロフ王朝の基礎を築きロシア帝国を北の大帝国に押し上げたピョートル大帝。2人目が今回の主人公であるエカチェリーナ2世でした。 今回はそんなエカチェリーナ2世の生涯やどうして大帝と呼ばれるようになった理由などを解説していきたいと思います。

元々はロシア人ではなかった生い立ち

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エカチェリーナ2世は1729年、神聖ローマ帝国領の領主の娘としてシュテッディンで生まれました。最終的にはロシア皇帝になるエカチェリーナ2世は元々神聖ローマ帝国出身であり、ロシア人ではなかったのですね。ちなみに、エカチェリーナという名前はロシア皇帝になってからの名前であり、若かりし時はゾフィー・アウグスタ・フレデリーケといういかにもドイツ人ぽい名前だったそう。

そんなエカチェリーナでしたが、実はこの人の伯父さんが当時のロシア皇帝であるエリザヴェータという人と婚約していたことがあり、ロシアとは実は縁が深く、さらにはその伯父さんが若くしてなくなるとその姪にあたるエカチェリーナに白羽の矢が当たり、1744年わずか16歳の時に当時の皇太子であったピョートル3世と結婚することになったのです。

こうして、神聖ローマ帝国領の生まれであった娘はロシア皇太子の妃としての人生を送ることになったのでした。

ドイツかぶれの皇帝とロシアに熱心な皇后

こうして、ロシア皇太子に嫁ぐことになったエカチェリーナでしたが、実はこの時夫になったピョートル3世という人物はなにかとドイツにかぶれていた人だったのです。それもそのはず、このピョートル3世はエカチェリーナと同じ元々神聖ローマ帝国領の出身。そのため、神聖ローマ帝国時代のことを懐かしみロシアのことを顧みることがほとんどなかったのです。

その一方でロシア帝国に住むことになったエカチェリーナは自身がドイツ人であることを忘れるかのようにロシアの文化や言語を学習。その勢いは凄まじいもので勉強をし過ぎでダウンするほどだったとか。そして名前までもロシア風の名前に変更し、宗教も神聖ローマ帝国で信仰されていたプロテスタントからロシア帝国で信仰されていたロシア正教会に改宗するなど何でもかんでもロシアに溶け込むように努めていたそうでした。

ここであなたに質問です。もし会社に外国人の方がいて一人は故郷のことを懐かしんで自分のことを見ずにそのままにしている一方で、もう一人は日本のことを理解して日本人と理解し合えるように努力しているのを見るとどっちを応援してあげたいと思いますか?もちろん後者ですよね。

当時のロシア貴族たちもこの感情と同じようにロシアのことを思ってくれているエカチェリーナの方に肩入れするようになり、ピョートル3世のことを白い目で見るようになりました。

そして、この関係は思わぬところで爆発することになるのです。

エカチェリーナ2世のクーデター

こうしてどんどん貴族たちの世論はエカチェリーナ2世に傾いていくことになるのですが、ピョートル3世のしくじりはこんなところで止まることはありませんでした。

エカチェリーナ2世が皇后なっていた時、西欧では七年戦争といってオーストリアとプロイセンが戦争を起こしたことをきっかけにフランスやイギリスなどを巻きこんだ一大戦争が起こっていました。

これを受けてロシアもこの戦争に加担することになるのですが、ロシアはオーストリアについてプロイセンと戦うことになります。しかし、国王は神聖ローマ帝国の領内にあるプロイセンに味方するような行動をとり、ついにロシアの貴族たちの怒りさえも買ってしまいました。

こうなったらロシア貴族たちはピョートル3世をなんとかして潰してエカチェリーナ2世に即位してほしい。エカチェリーナ2世もこの頃夫婦関係が上手くいかず、ピョートル3世を倒そうと子供を産んだ途端クーデターを起こしました。

普通クーデターといえば大体が内乱状態となるのですが、このロシアにおけるクーデターはピョートル3世側についている人がほとんどいなかったこともあってか無血で成功したそうで、ピョートル3世はこのクーデターによって幽閉。その後暗殺されたそうです。

啓蒙専制君主として

こうしてついに女帝として君臨することになったエカチェリーナ2世。彼女は帝位につくとすぐにロシアの近代化に励んで行くことになります。

この当時、ロシアという国は広大な土地を持っている一大帝国だったのですが、その国土のほとんどが不毛地帯な上に、農奴制という昔の封建制度を今に残しているようなまさしく後進国でもあったのです。

そこでエカチェリーナ2世は当時啓蒙思想が大幅に発達していたフランスからディドロという人を招いて啓蒙専制君主としての改革を開始。

いろんな身分の人が集まってロシアのの法律を作ってみて、農奴制を一部緩和したりするなど様々な近代的な改革を実施していきます。

しかし、この改革はなかなかうまいことはいきませんでした。

そもそも農奴制というのは貴族たちが農民たちを支配するという制度であり、農奴は貴族の財産として扱われていたのです。そのため農奴制を緩和するということは貴族の財産を奪うということに他ならないのでした。

また、エカチェリーナ2世はこれまでロシアを支配してきたロマノフ家の出身ではない身。皇帝についたのも貴族たちの支持があってこそのものでしたので、ここで変なことをすればピョートル3世みたいにクーデターが起こる可能性がありました。

そのため、改革は上手いこといかずにそのまま休止。改革はいいところまで行きましたが、そのまま頓挫してしまったのです。

エカチェリーナ2世による対外政策

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こうしてエカチェリーナ2世は啓蒙専制君主としていろんな近代的な改革に努めるために日々奮闘を重ねることになるのですが、エカチェリーナ2世はさらにロシアの国土を大きく拡大していくためにいろんな国と戦いを仕掛けていくことになるのでした。

オスマン帝国との戦争【露土戦争】

ロシアが命に代えてでも欲しかったもの。それは広大な領土ではなく凍らない港でした。

ロシアという国はたしかに広くて一見すればいいと思うかもしれませんが、この当時は一年中寒い土地で作物も育たない不毛な土地だらけ。さらに、この当時貿易というのが国の発展に関わる重要な行為であったのにもかかわらず、ロシアは港が一年中凍っている所が多く、夏の間に貿易を行うことが精一杯でした。

そのためロシアは不凍港の獲得に躍起になるのですが、その標的となったのがかつて世界最強の国と呼ばれたオスマン帝国だったのです。

この戦争においてロシア軍は多大な犠牲を払いながらもアレクサンドル・スヴォーロフの活躍もあり、ロシア帝国にかなり有利な内容で講和を結ぶことに成功。クリミア・ウクライナ・そして一年中凍らない海である黒海沿岸を手に入れ、悲願の不凍港を手に入れたのでした。

さらに、この戦争によって久しぶりにウクライナがキリスト教の国に支配されるようになり、ウクライナでも農奴制が敷かれることになったのです。

ポーランドの分割

昔、今では考えられないことなんですが東欧において一番強かった国はロシアではなくポーランドでした。

しかし、18世紀に入るとポーランドは徐々に弱体化。さらにポーランド独特のシステムである国王を選挙によって決めるということもあり、お隣のプロイセンやオーストリア、そしてロシアなどによって激しい選挙干渉が行われるようになります。

ロシアからしたらポーランド全土いただきたかったみたいですが、エカチェリーナ2世はプロイセンとオーストリアとポーランドを巡って争うのは得策ではないとしてポーランドを三国間で分割するように提唱。三回にも渡る分割によってロシアはポーランドの東側を領土化したのでした。

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