【影の少年時代】政治争いに巻き込まれた聖徳太子
聖徳太子が生まれた頃、日本では飛鳥地方(奈良県)におかれた大和朝廷が、西日本を中心に広い範囲を支配し、政治をおこなっていました。大和朝廷は、大王(天皇)を中心とした、豪族たちの政権です。聖徳太子が生まれた時代、豪族たちは朝廷での熾烈な権力争いを繰り広げていました。少年時代の聖徳太子は、こうした豪族たちの権力争いに巻きこまれていきます。
蘇我氏と物部氏の争い
並みいる有力豪族たちの中でも、特に対立したのが物部氏と蘇我氏です。朝廷の中でも、古くから権力を握っていた物部氏は軍事や裁判、急激に力を伸ばした蘇我氏は財政や外交を担当する豪族でした。蘇我氏が権力を大きくした要因の1つに、一族の娘を天皇や皇子の妃にするという政策があります。実は聖徳太子も、そうした蘇我氏による政略結婚の下で生まれた皇子の一人でした。
豪族の中でも大きな権力を有していた彼らは、次第に次期天皇の選出をめぐって対立を深めていきます。どちらも、自分に有利な天皇を擁立することで、朝廷での自分の立場をより大きなものにしようとしたのです。
戦争に参加した14歳の聖徳太子
聖徳太子の父である用明天皇が亡くなると、次の天皇をだれにするかという問題が起こりました。
物部氏にとっては、次こそ自分と手を組んでくれる人物を天皇に任命したいと思ったことでしょう。ところが、その動きを封じるために、蘇我馬子は物部側の天皇候補であり、聖徳太子のおじである穴穂部皇子を殺してしまいました。
天皇候補を殺した馬子はさらに、物部守屋を討つために兵をあげました。蘇我氏と物部氏という朝廷を代表する2つの豪族が、武力と武力でぶつかり合ったのです。
この戦いに、当時14歳の聖徳太子も参戦しました。少年時代の彼は、多くの人が血を流し、争う悲劇を目の当たりにしたことでしょう。
またも!豪族に暗殺された天皇
結局、戦争の勝者は蘇我氏で、馬子は聖徳太子のおじにあたる人物を即位させました。崇峻天皇の誕生です。この天皇を推したて、朝廷で権力をふるおうと考えた馬子ですが、思い通りにはことが進みませんでした。
『日本書紀』には、崇峻天皇と蘇我馬子の間に不和があったことが書かれています。崇峻天皇が即位してから5年が経ったある日、天皇は献上された一頭のイノシシを指さし、「いつの日か、このイノシシの首を落とすように、私の嫌いな男の首を落としてやりたいものだ。」と言い、武器をたくさん用意しました。嫌いな男というのが、蘇我馬子です。
この話を聞いた馬子は、崇峻天皇を暗殺しました。崇峻天皇は、先に馬子によって暗殺された穴穂部皇子の弟で、兄弟そろって馬子の毒牙にかかってしまったのです。
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子どもの頃から、戦で多くの人が傷つく姿や、親戚である天皇家の人物が、豪族の権力争いのために殺される一連の様子を目の当たりにしながら大人へと成長していく聖徳太子。そんな彼の生活に光をともしたものがあります。それが、朝鮮から伝わってきた仏教でした。
日本人が初めて出会った仏教
日本に仏教が伝わってきたのは、6世紀半ばのことです。百済(現在の韓国)の聖明王が、わが国の皇室に使者を派遣し、仏像一体、仏具、経典を伝えました。親書には、仏教が素晴らしいものだということや、仏教に帰依することをすすめる内容が書かれていました。
それまでの日本にはない、エキゾチックな音声や香に包まれた神秘的儀礼、壮麗な伽藍や仏像からは、強いインパクトを受けたことでしょう。日本にとって、仏教は強力な呪術という印象があったはずです。
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仏教の教えにのめりこんでいく聖徳太子
蘇我氏は朝廷の中でも仏教受容派であり、そんな蘇我氏とつながりのある家系の出身である聖徳太子は、幼少時より仏教に慣れ親しんだ環境で育ったと思われます。蘇我馬子も、聖徳太子が仏教を学びやすい環境を整えました。
仏教を学ぶおぜん立てをしたのは蘇我氏ですが、その教えは聖徳太子の心に深く根をおろしていきます。22歳の頃、彼の人生を大きく変える出来事がありました。高句麗の僧である慧慈との出会いです。
当時の朝鮮は、高句麗、新羅、百済の3つに分かれていました。日本に仏教を伝えるなど、交流が盛んだったのは百済ですが、聖徳太子の仏教の師となった慧慈は、高句麗の出身でした。中国に接していた高句麗は、朝鮮の3国の中で最も進んだ教えが入ってくる場所だったため、聖徳太子は日本の中でも最先端の仏教の教えを学ぶことができたのでした。