歴史から姿を消した仏教の理解者たち
多くの日本人には影響を及ぼさなかった聖徳太子の思想。しかし彼が大切にした仏の教えを、しっかりと理解していた者もいました。山背大兄王(やましろのおおえのおう)、聖徳太子の子どもです。彼やその妃、そして孫たちは、聖徳太子の亡きあとわずか20年後の643年に相果てています。蘇我馬子の孫である蘇我入鹿が突如軍勢をさしむけ、彼らが居住していた斑鳩宮をおそうという事件が起こったのです。山背大兄王の声望の高いことを妬んだ犯行でした。そのときのエピソードが残されています。
山背大兄王らはいったん生駒山に避難して難を逃れました。そこで挙兵をすすめられましたが、山背大兄王はこう話しました。
「わたくしが兵を起こして入鹿を討てば、勝つことは疑いない。しかし自身ひとりのことで、多くの人民の命をそこなうことはわたくしの欲するところではない。わが身を入鹿に与えよう。」
こうして再び山を下りた山背大兄王らは、亡き父の建てた斑鳩寺に入り、ついに戦わずして塔のなかで一族もろとも自決したのでした。
日本の歴史のなかで初めて、王の身分でありがら、人民のためにわが身を犠牲にした瞬間でした。こうして、争いを憎み、和を貴んだ聖徳太子とその精神を受け継いだ者たちの血は途絶え、仏教の神髄を理解した者たちは、惜しくも政治の表舞台から姿を消しました。
新しい時代に求められる「和」の精神
仏教と真剣に向き合い、国や人の生き方を豊かにするために仏教の教えを政治に取り入れようとした聖徳太子。幼少時代から多くの争いや悲劇を目の当たりにした聖徳太子が最も大切にした「和」の精神、彼の思想は同時代の人々にとって先進的過ぎて、影響を及ぼすことはありませんでした。しかし、何百年、何千年の時を経て、聖徳太子の教えや「和」の大切さは現代を生きる私たちの心にも確かに根づいています。新しい「令和」の時代、日本という国はそこに、聖徳太子が求めた「和」の精神をどのように体現させていくのでしょうか。