【光の壮年期】聖徳太子が求めた政治と仏教のありかた
日本の古代の歴史の中で、政治と仏教はどのように関わりあってきたのでしょうか。今でも奈良県の東大寺に足を運べば、大きな仏像を拝むことができます。東大寺の大仏をつくらせたのは、聖武天皇。彼は「国を災厄から守る」という鎮護国家の思想のもとに、仏教を政治にとりいれました。こうした鎮護国家の考えは、蘇我氏から成立したと思われます。しかし、熱心に仏教の教えを学んだ聖徳太子は、彼らとは違った視点から、仏教を政治に取り入れようと考えていたようです。聖徳太子が求めた政治と仏教のあり方についてみていきましょう。
憲法十七条から分かる聖徳太子が目指した国
「あつく三宝(仏教)を敬いなさい。仏教はあらゆる生きものの最後に帰するところ。すべての国のよりどころとなる究極の存在。どのような世、どのような人も仏法を貴ばない人があろうか。人間は、甚だ悪い者は、少ない。よく仏法を教えるとそれに従うもの。仏法に帰依しなかったら、何をもって邪悪な心を正すことができようか。」
聖徳太子にとって仏教とは、人々が豊かに生きていくために必要な知恵がすべて含まれている学問のようなものでした。彼は仏教によって国家を災害や外敵から守ろうとしたのではなく、仏教の教えを学ぶことで一人ひとりがよりよく生き、国を豊かにすることができる、そう考えていたようです。つまり、仏教の教えを体現した国づくり、人づくりこそが、聖徳太子の目指す政治でした。
仏教の教えを体現した政治
聖徳太子が仏教の教えに基づいて政治をしていたことがよく分かる制度があります。四箇院の制です。
聖徳太子の政策で有名なものといえば、憲法十七条や冠位十二階の制など、天皇中心の政治システムを整えるための制度を制定したイメージがありますが、実は、生きとし生けるものの救済を願い、弱いものを助けるための施設も作っていました。
「療病院」疫病や凶作による飢えに苦しむ民衆を救うための病院。
「施薬院」患者に合わせて薬草を調合し、無償で施した場所。
「悲田院」身寄りのない者や年老いた者を寝泊まりさせた場所。
「敬田院」訪ねてきた者に仏法を分かりやすく説いた場所。
こうした政策をみると、聖徳太子は仏教をうまく利用して政治をしたのではなく、政治家という立場から、仏の教えを実践しようとしていたことが分かります。仏の教えが栄えることによって、人々を正しく導いて、国家が平安になることをただただ願う、聖徳太子はそんな政治家だったのかもしれません。
【影の晩年】仏教の理解者たちの消滅
高句麗僧の慧慈から仏教の教えを学んだ聖徳太子は、政治に仏教を利用したのではなく、あくまで仏教の精神の神髄を理解しようとひた向きに仏教と向き合いました。しかし仏教が伝わり始めたこの時代のなかで、聖徳太子ほど正確に仏教を理解していた人はおらず、彼が理解を通じ合える相手は、渡来僧や慧慈など、非常に限られていました。そんな聖徳太子に、悲しい別れが訪れます。
慧慈との別れ
聖徳太子に仏教の教えを説いてから20年、慧慈の故郷である高句麗は危機を迎えていました。中国の隋の軍勢に攻め込まれていたのです。慧慈は傷付いた祖国の人々を放っておくことができないと帰国する旨を伝えますが、聖徳太子は慧慈の身を案じ、そんな状況下で帰るのは危ないと止めました。
その後、隋の軍勢の激しい攻撃に力尽きた高句麗は、とうとう降参しました。祖国の敗戦を知った慧慈は、傷付いた人々の力になるために飛鳥を去ります。聖徳太子も、二度目は止めませんでした。仏教の神髄を理解しようと、国を越えて学び合った二人に、永遠の別れが訪れました。高句麗に帰った慧慈は、聖徳太子の学問の深さをたたえ、その行いを人々に語ったといわれています。
孤独の晩年
慧慈と別れたあとの聖徳太子は、物思いにふけ、閉じこもるようになりました。慧慈が帰国してからというものの、同じレベルで親しく仏教を語る相手がいなくなってしまったのです。当時の日本において、仏教はまだ外国の神という程度の認識。仏教に関する知識や理解において、日本人のなかでは突出していた聖徳太子は、ますます孤立感を深めていきました。
こうして周囲から孤立した聖徳太子の仏教観は、多くの日本人に影響を及ぼすことはありませんでした。
その後の仏教は、国家を災厄や外敵から守るものとして都合よく利用され、聖徳太子が目指した、仏教の教えを体現した国づくり、人づくりは、夢物語となってしまったのです。