日本の歴史江戸時代

東京の原型を作り上げた大火事「明暦の大火」とはどんな火事?〜この大火事で江戸は変わった〜

江戸で一番被害を出したと言われている明暦の大火。この明暦の大火によって江戸城の天守はおろか、江戸の全体を火の海としてしまいました。 なぜこんな火事が起こってしまったのか?今回はそんな明暦の大火について解説していきたいと思います。

明暦の大火とは一体どんな火事だったのか?

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明暦の大火とは江戸時代初期の1657年に起こった日本最大級の大火事の名称のことを指します。別名は振袖火事。本妙寺と呼ばれる寺から出火した炎が風に煽られてしまい小石川・京橋・江戸城方面に向かって燃え広がり、最終的には江戸の四分の三が焼失。死者・行方不明者数は10万人を軽く超えるとんでもない大災害となりました。

ちなみに、世界的に見ても火事でこんなに燃えたことはなく、この明暦の大火をロンドン大火とローマ大火と共に世界三代大火と呼んだりもします。

江戸は火事の多い町であった

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明暦の大火がとんでもないほどの被害を出した理由。それは何と言っても江戸という町がとんでもないほど火事に弱い町であり、さらには火事が起こりやすい町であったことにあると思います。

まずはどうして江戸の街が火事にそんなにも弱かったのかを見ていきましょう。

住宅のほとんどが木造建築

江戸の町が圧倒的に火事に弱かった理由。それは何と言っても江戸の町の住宅がほとんど木造建築だったことにあると思います。ヨーロッパの街を見てみるとその家のほとんどが石であったりレンガであったりするなど強い火がやってきても耐えられるようになっていますね。しかし、木ということになるとあっさり燃え広がることは火を見るよりも明らかです。

さらに、この当時の江戸には高層住宅というものはほとんどありません。江戸時代の町人は長屋という木造の建築がすし詰め状態になっているような住宅に住んでいました。木造住宅な上にすし詰め状態。江戸の街は火が燃え広がることについてはまさしくうってつけの都市であったのかもしれません。

人口の数がとんでもなく多かった

江戸という町は今では900万人が住んでいますが、江戸時代の頃の江戸後期でもおよそ100万の人が住んでいたそうです。この頃の世界の都市において都市人口が100万人を超えるというのは江戸ぐらいしかなかったのかもしれません。江戸時代後期のパリで約50万、ロンドンですら80万だったそうですし。

上にも書いた通り、江戸の町には高層住宅なんてものはありませんし、また、この頃は今の練馬区や板橋区周辺は未開発だった時代。

人口過密がとんでもないぐらい多いということはその分失火を起こしてしまう可能性がある人も増えるということですので自然的に火事が起こるケースが多かったのではないのでしょうか?

江戸の空気は乾きやすかった

よく冬になると『火事には気をつけましょう』というスローガンが掲げられることがありますが、火というものは湿度が低いと燃え広がりやすく火事による被害が大きくなるのです。

冬という季節は乾いた空気が日本列島に流れてくることもあって湿度が低い傾向があります。

特に江戸の町は夏と冬の湿度の差が顕著に現れており、夏は蒸し暑いのに対して冬になると晴れが続いて空気が乾くという状態となっていました。

そのため冬になると江戸の町では火事が起こりやすく大きな被害を出してしまうことがしばしばあったのです。

ちなみに、明暦の大火が起こったのは1657年1月18日。見事に真冬に起きたことがわかりますね。

消火活動が未発達だった

人口が多く、木造住宅がほとんどであった江戸の町。まだここまでならわかるかもしれませんが、実はここまで火事が多かったのにもかかわらず、江戸時代における消火活動はかなり原始的なものでした。

今でこそ火事が起こった場合には消防隊が火元に高圧の水をかけて火を消すという方法がとられていますが、江戸時代における消火活動といえば周りの家をぶっ壊して自然消火させるというものでした。

たしかに、そうすれば手っ取り早いといえば手っ取り早いのですが、こんな状態で火が消えるはずもなく風が強い日であれば壊した家屋を超えて延焼することもしばしば。最終的には江戸全体を燃やす火事になることが頻発したのでした。

ちなみに、今の消防署の地図記号に使われているあのマークは消火活動のために家を壊した道具であるさすまたを図案化したもの。

江戸時代の消火活動の名残がまだあったのですね。

明暦の大火の出火原因とは?

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この様に江戸の町は火事が起こるべくして起こる様な町でありましたが、そんな江戸の大半を燃やした明暦の大火の出火原因はいまだ謎に包まれています。明暦の大火は別名振袖火事と呼ばれているように、振袖に関するとある理由から大火事が起こったと言われました。

明暦の大火の4年前の1654年。とある一人娘が母に連れられて寺に参拝した時に寺小姓風の美少年に一目ぼれしました。その一人娘 がその少年に惚れた後からしばらくの間何もできなかったことを心配したお母さんは少年が来ていた振袖を作ってそれを娘に与えたんだとか。しかし、そんな時に少年が亡くなってしまったという知らせが入り、その振袖を棺の中に入れて供養しました。

しかし、この頃はこういう棺に入れられた品物は寺の人がもらっでいいということになっており、この一人娘の振袖も引き取られ、さらには転売されていくうちに上野に住んでいた一人娘のものになりました。ところがこの娘もしばらくすると病にかかってしまい、再び本妙寺に出戻ってしまったんだとか。これは何か色々あるんだろうなと感じ取った寺の住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにしました。

しかし、この焼いて供養するという行為がダメなものでして燃やした瞬間に風に流されて最終的には駿河台へと燃えひろがり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火となったのです。

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