- 白村江の戦いが起こった背景
- 朝鮮半島三国と日本の関係
- 中国大陸が約270年ぶりに統一され、隋唐帝国が誕生
- 7世紀半ば、日本は大化の改新の真最中だった
- 朝鮮半島での戦いに介入する日本、白村江の戦いの経緯とは
- 半島情勢の激変。唐・新羅連合軍が百済を滅ぼした
- 斉明天皇は百済復興軍を支援し朝鮮半島に出兵
- 日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍が白村江で激突
- 白村江での大敗によって日本は国家存亡の危機に
- 唐・新羅連合軍を食い止めろ!北九州から瀬戸内海沿岸に築かれた防衛体制
- 唐と似たシステムを持つ中央集権の律令国家をつくった
- 朝鮮半島情勢の変化と続けられた遣唐使・遣新羅使
- 国際関係が大きく変化するとき、国のかじ取りを一歩間違うと国家滅亡の危機に直面する
この記事の目次
白村江の戦いが起こった背景
6世紀後半、約270年にわたり分裂をつづけた中国大陸が統一されると東アジアの国際関係が劇的に変化します。古代の日本は朝鮮半島や中国大陸の諸王朝と密接なかかわりを持っていたため、国際情勢の変化によって大きな影響を受けました。中国に誕生した超大国である隋唐帝国は朝鮮半島にも進出を図ります。6世紀後半から7世紀中ごろにかけての東アジアや日本の情勢を整理しましょう。
朝鮮半島三国と日本の関係
日本で古墳時代にあたる4世紀の末、朝鮮半島は三つの国に分裂。そのうち、現在の中国東北地方から朝鮮半島の北部にかけて支配していたのが高句麗でした。4世紀末には高句麗の好太王と日本の戦いがあったことが記録されています。
朝鮮半島の南西部を支配していたのが百済。百済は日本と良好な関係をたもち、仏教などの先進的な知識は百済から日本にもたらされます。百済との友好関係は白村江の戦いのころまで継続しました。
その反面、朝鮮半島南東部を支配した新羅と日本は比較的疎遠でした。のみならず、新羅は日本が支配下においていた半島南部の伽耶諸国を攻めるなどしたからです。6世紀に入り高句麗や新羅の圧力が強まると、百済は日本の援助を受けました。新羅の強大化を心配する日本も百済を支援します。
中国大陸が約270年ぶりに統一され、隋唐帝国が誕生
4世紀、三国を統一した晋が短期間で滅亡すると、中国大陸は長い分裂の時代に入ります。数多くの王朝が乱立した五胡十六国時代を経て、中国は南北二つの王朝が対立する南北朝時代となりました。
589年、北部を支配していた隋が南朝の陳を滅ぼし270年ぶりの大陸統一を成し遂げます。隋は強大な国力でモンゴルやベトナムに出兵。隋の皇帝煬帝は朝鮮半島の高句麗に対しても3度にわたり大軍を派遣しました。高句麗はかろうじて隋を追い返しますが、疲弊してしまいます。その隙をついて百済と新羅の争いが激化しました。
618年、隋が短期間で滅亡し唐が成立すると、新羅は百済攻撃のための援軍を要請します。かねてから、高句麗を滅ぼそうと考えていた唐は、先に百済を滅ぼし、新羅とともに高句麗を南北から挟み撃ちにしようと考えました。
7世紀半ば、日本は大化の改新の真最中だった
6世紀前半、日本は大豪族である蘇我氏の力が強大でした。蘇我馬子の子である蘇我蝦夷や馬子の孫にあたる蘇我入鹿は朝廷内で並ぶもののない力を持ちます。特に、蘇我入鹿は聖徳太子の子である山背大兄王を滅ぼすなど反対者を力で排除しました。
645年、皇極天皇のである中大兄皇子は中臣鎌足らとともに蘇我氏排除の計画を実行に打ちし、蘇我入鹿を討ち果たしました。これを、乙巳の変といいます。蘇我氏を排除した中大兄皇子らは孝徳天皇を即位させ、中央集権を目指した政策を実行しました。
孝徳天皇のもとで行われた一連の政策を大化の改新といいます。孝徳天皇時代に、土地と人民は天皇のものとする公地公民制などを掲げた改新の詔を発布。孝徳天皇が死去し、中大兄皇子の母(皇極天皇)が再び即位し、斉明天皇となったあとも、中央集権化をすすめます。7世紀半ばは、日本でも変革の時代でした。
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朝鮮半島での戦いに介入する日本、白村江の戦いの経緯とは
新羅の要請により出兵した唐軍は圧倒的な力で百済を攻め滅ぼします。唐・新羅連合軍によって滅ぼされた百済の人々は日本にいた百済の王族をたてて百済復興軍を編成。唐や新羅に対して抵抗を続けます。百済復興軍から救援要請を受けた斉明天皇は支援を決定。斉明天皇は朝鮮半島に40,000余の軍勢を派遣しました。
半島情勢の激変。唐・新羅連合軍が百済を滅ぼした
隋の度重なる侵攻を受けた高句麗は南にあたる百済と和睦。高句麗と百済は唐や新羅に備えます。百済は高句麗との和睦をチャンスととらえ、ライバルの新羅に襲い掛かりました。高句麗と百済が戦うたび、新羅が百済領を攻め取り領土を拡大していたからです。
新羅は高句麗・百済の圧力に対抗するため、唐に援軍を要請しました。半島進出の機会をうかがっていた唐は百済の情勢を調べます。その結果、百済が飢饉に見舞われても対策をしていないことや防備を怠りがちなことなどをつきとめました。
百済の政治が乱れていると考えた唐は秘密裏に百済出兵を準備します。660年、唐の大軍は突如として海を渡り百済を攻めこみました。唐・新羅連合軍は13万といわれる大軍で、百済は短期間に滅ぼされてしまいます。
斉明天皇は百済復興軍を支援し朝鮮半島に出兵
百済を滅ぼした唐軍の主力は本来の攻撃目標である高句麗に向けて移動します。百済の将軍だった鬼室福信らは百済復興の軍を起こしました。鬼室福信は日本に対し、人質として派遣されていた百済王子余豊璋の帰国と百済復興軍への支援を要請しました。
斉明天皇と中大兄皇子は鬼室福信の要請に答え、余豊璋を帰国させます。そのうえで、斉明天皇は阿倍比羅夫らに40,000の兵を預けて百済復興軍への支援を命じました。
しかも、斉明天皇自身も飛鳥を出発し九州北部にある筑紫国朝倉宮に赴き、戦争に備えます。しかし、斉明天皇は661年に朝倉宮で死去しました。その後、中大兄皇子が天皇代理として国を指導しますが、朝鮮への出兵そのものは継続されます。