日本の歴史飛鳥時代

日本が唐との戦いに敗れた「白村江の戦い」とは?わかりやすく解説

日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍が白村江で激突

日本軍は一気に朝鮮半島を渡ったわけではありません。第一陣の10,000ほどが百済王子を伴って朝鮮半島にわたります。続いて、司令官である阿倍比羅夫に率いられる第二陣が27,000余、さいごに第三陣の10,000が渡海しました。

阿倍比羅夫は斉明天皇時代に東北地方の日本海側に遠征した将軍で、最も経験豊富な武人でした。斉明天皇は最高のカードを切って白村江の戦いに備えたのです。

日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍はは海上と陸上で激突しまし。海上では日本水軍が唐・新羅連合軍が停泊する白村江に突入し、唐水軍の撃滅を図ります。しかし、唐・新羅軍は日本軍の攻撃をはねのけ、攻撃は失敗。日本軍は1000隻のうち400隻を失ってしまいます。

同時期に行われた陸戦でも日本・百済復興軍は唐・新羅連合軍に敗北。百済復興軍は完全に滅亡し、日本は朝鮮半島から撤退しました。

白村江での大敗によって日本は国家存亡の危機に

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白村江で超大国である唐の軍事力をまざまざと見せつけられた日本は、全力で唐・新羅連合軍の日本侵攻を防ぐ手立てを考えます。その一方、中大兄皇子らは朝鮮半島から亡命した百済人たちを取り込みながら、唐に負けない中央集権国家をつくることに力を注ぎました。古代で最大級のピンチである白村江の敗戦からいかにして日本は生き延びることができたのでしょうか。

唐・新羅連合軍を食い止めろ!北九州から瀬戸内海沿岸に築かれた防衛体制

白村江で日本・百済復興軍が大敗を喫した知らせは直ちに朝廷にもたらされました。朝廷の指導者であった中大兄皇子は国防の強化を図ります。最初に手を付けたのは九州北部の防衛でした。

九州北部には朝廷の拠点である大宰府が置かれています。朝廷は大宰府を守るため、北方に水城(みずき)をつくりました。水城は博多湾から上陸した軍から大宰府を守るためのものです。

さらに、大宰府付近の山に大野城を築城しました。それだけではありません。朝廷は対馬から瀬戸内海沿岸、大和周辺に至る重要な地点に朝鮮式山城を築城します。667年、中大兄皇子が天智天皇として即位すると、都を飛鳥から内陸の近江大津宮へと遷都。天智天皇としては考え得る限りの防衛体制を敷いて唐・新羅連合軍の侵攻に備えました。

唐と似たシステムを持つ中央集権の律令国家をつくった

防衛体制を固める一方、天智天皇や後継者の天武天皇持統天皇らは中央集権国家の樹立を急ぎます。乙巳の変から始まる大化の改新によって、蘇我氏の勢力を排除することには成功していましたが、天皇を中心とする中央主権国家はまだ出来上がっていません。

そこで、天智天皇は改新の詔にそって、最初の戸籍である庚午年籍の編さんや、近江令の施行などを行いました。天智天皇の死後、後継者争いである壬申の乱に勝利した天武天皇は武力で皇位についたことを最大限利用し、有力豪族たちを従えます

天武の妻で、天皇に即位した持統天皇飛鳥浄御原令の施行や庚寅年籍の編さんをすすめました。天智・天武・持統の50年間の中央集権化を経て、文武天皇の時代に大宝律令が施行されます。こうして、日本も唐のような律令国家となりました。

朝鮮半島情勢の変化と続けられた遣唐使・遣新羅使

白村江で日本・百済復興軍に勝利した唐は、本来の目的である高句麗との戦いに専念。これに対し高句麗は頑強に抵抗をつづけ、一度は唐を退けます。しかし、高句麗で内部の争いがおきると、唐は高句麗に内紛に乗じて再び侵攻。その結果、668年に唐は高句麗を滅亡させました

唐と新羅は共通の敵である高句麗・百済が滅亡すると、旧百済領などをめぐって互いに争うようになります。新羅は時間稼ぎをしつつ、唐と戦う準備を進めました。

674年、唐は新羅を討伐するための兵を差し向けましたが、準備を整えた新羅軍を前に苦戦します。そして、676年、新羅は唐の遠征軍を打ち破り朝鮮半島を支配下に置きました

日本は唐・新羅両国との関係改善を図ります。遣唐使は白村江の敗戦後も継続して派遣され、遣新羅使も同様に継続して派遣されました。そのおかげで、天智天皇が心配した唐・新羅連合軍による日本侵攻という事態は発生せず、関係を改善させることに成功します。

国際関係が大きく変化するとき、国のかじ取りを一歩間違うと国家滅亡の危機に直面する

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白村江の戦いが起きた7世紀中ごろは東アジアの国際情勢が大きく変化した時期でした。隋や唐という超大国の誕生は周辺諸国に大きな影響を与えます。それにともなって、朝鮮半島では国家統一の動きが進み、日本では大化の改新など中央集権を目指す動きが活発になりました。国際情勢が激変するとき、国の指導者は細心の注意を要求されます。一歩間違うと、白村江の戦いのように大きな損害を受けかねません。

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