剛勇の武将・本多忠勝の娘
小松殿は、徳川家康の重臣である本多忠勝(ほんだただかつ)の娘として誕生しました。父の強さを間近に見ながら育った彼女は、自身もまた男勝りの女性に成長し、やがて徳川家康と真田昌幸(さなだまさゆき)の和睦の証として真田家に嫁ぐことになります。彼女がただのしとやかな武家の女性でなかったことがわかる逸話を紹介しながら、その前半生を見ていきましょう。
父は「天下無双」本多忠勝
小松殿は、天正元(1573)年に本多忠勝の長女として生まれました。幼い頃は「於子亥(おねい)」、「稲姫(いなひめ)」と呼ばれたそうです。稲姫という名も有名ですし、「小松姫」とも呼ばれていますが、ここでは小松殿で統一していきますね。
父・本多忠勝は音に聞こえた勇将。徳川四天王に名を連ね、豊臣秀吉からも「天下無双」と絶賛され、生涯で参戦した57度の戦で傷一つ負わなかったという伝説まで持つ武将です。
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猪を一太刀で撃退!?
そんな、神がかり的な忠勝の娘として生まれた小松殿もまた、少女時代に勇猛を伝える逸話を残しています。
ある時、小松殿が城下に出かけていたときのこと。
城下町に突然、大きな猪が出現し、人々めがけて突進してきました。
その先には、赤ちゃんが入った竹かごが置かれていたのです。
それを見て叫んだ母親の声を聞きつけた小松殿は、駆け寄って赤ちゃんを抱きかかえて母親に渡すと、振り向くなり猪に太刀を浴びせました。そして、猪は逃げたところを捕らえられ、誰も怪我なく済んだのです。
これが少女時代の逸話というんですから、小松殿が父の血を色濃く受け継いでいたことがわかりますよね。
真田信之との結婚、勇壮なる良妻賢母に
小松殿の人生を変えたのは、生涯の伴侶・真田信之(さなだのぶゆき/最初は信幸)との結婚でした。真田家はいわば敵方のようなものではありましたが、小松殿は夫を支え、子を守る良妻賢母に成長を遂げます。とはいえ、驚くほどの男勝りエピソードに事欠かないことは変わりありませんでした。では、妻となり母となった彼女の様子を見ていきましょう。
主家と敵対した真田家に輿入れが決まる
小松殿の父・本多忠勝が忠誠を尽くす徳川家康は、真田昌幸(さなだまさゆき)とは領地などを巡り衝突を繰り返していました。そして、たいていの場合、家康が煮え湯を飲まされていたのです。天正13(1585)年に起きた第一次上田合戦では、家康は4倍近い兵力を有しながら、策謀家である昌幸と信之らに敗れていました。
しかし、両者は天下人・豊臣秀吉の命令で和解することになりました。この時、和議の証として両家の婚姻が決まったのですが、白羽の矢が立ったのが小松殿だったのです。
当時、家臣の娘が主の養女となって嫁ぐということは珍しくなく、小松殿は家康の養女と名目で、昌幸の息子・信之と結婚することになったのでした。
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逸話:小松殿の婿選び
これはあくまで逸話にすぎませんが、小松殿の勇壮さを示す代表的なものですので、ご紹介しておきたいと思います。
徳川家康は、小松殿のために婿候補の若者を一堂に集め、彼女に品定めをさせることにしました。この時点で有り得ない話ではありますけれど、面白い話なのでぜひ続けて読んでくださいね。
さて、小松殿は、なんと居並ぶ若者たちひとりひとりの髷をつかみ、顔を挙げさせてまじまじと覗き込んでいきました。なんたる度胸…!
誰もが、「本多忠勝の娘で徳川家康の養女」である小松殿には何も抵抗できませんでしたが、その中でひとり、「無礼な!」と鉄扇で彼女の頬を打ち据えた若者がいたのです。
それが、真田信之でした。
鉄の扇で殴打とは相当乱暴な話ですが、小松殿は怒るどころか、信之の気骨に惚れ込んでしまったのです。こうして、即、信之のもとに輿入れが決まったのでした。
意外にも?夫婦仲は良好
実は、信之にはすでに正室である清音院殿(せいいんいんでん)がいたのですが、彼女を側室に格下げしてまで小松殿を迎えました。こういうことはよくある話でしたが、小松殿が真田家にとっても重要な存在だったことがわかりますね。
また、前述の逸話が伝わるような結婚でしたが、信之との夫婦仲はきわめて良かったようです。二男(三男とも)二女をもうけました。
豊臣秀吉の時代には人質として上方に居住することになり、そこで子供たちを育て、真田家の奥座敷を取り仕切る存在として、良妻賢母ぶりを発揮したようです。