結果を残せなかった息子たちを一喝!
大坂の陣そのものは徳川方の勝利に終わり、豊臣秀頼やその母・淀殿が自害し、大坂城は落城しました。真田信繁も命を落としました。
では、派遣された真田信吉・信政兄弟の戦績はどうだったのかといいますと、残念ながら、あまりよろしいものではなかったのです。
若さゆえか彼らはうまく戦うことができず、敗走することになり、命だけは何とか助かったという状態でした。
こうして帰ってきた息子たちを迎えた小松殿は、手厳しい言葉を浴びせます。
「ひとりくらい死んでおけば、我が家の忠心が幕府に示せたものを!」
この言葉の厳しさが、後に小松殿のイメージを「鬼嫁、鬼母」的なものにしてしまったのかもしれません。
きちんと裏で息子たちのフォローをしていた
しかし、小松殿は、息子たちに死んでほしいなどと思っていたわけではありません。
実は、息子たちを送り出してから、彼女は戦場にいる家臣に手紙を書いていたのです。
「信吉や信政はまだ若く、夫(信之)のようにはうまくできないでしょう。幕府の目もありますし、何かとやりづらいかとは思いますが、どうかよろしく頼みます」
母としての厳しさがありながら、その裏にはそれ以上の優しさと思いやりがあったわけですね。
真田家の光だった小松殿
小松殿の思いをいちばんよく分かっていたのは、夫・信之だったと思います。
元和6(1620)年、病を患った小松殿は、江戸から草津へと療養の旅に出ますが、途中で病状が悪化して亡くなりました。
小松殿を失った信之は、「我が家から光が消えた」と嘆き悲しんだそうです。厳しくも優しく、家を支えた彼女は、まさに真田家の光だったのでしょう。