真田家の女性として、信之の妻として
小松殿が本多忠勝の血を色濃く受け継いでいると証明したのが、関ヶ原の戦いから大坂の陣にかけての間に伝わる数々の逸話です。舅・真田昌幸であっても敵となっては警戒心を緩めず、単なる妻・嫁・母にとどまらない、小松殿の強さをご紹介していきましょう。それと同時に見せる細やかさもまた、彼女の魅力なのです。
関ヶ原の戦いが起き、真田家は敵味方に分かれる
慶長5(1600)年は、真田家にとって大事件の年でした。
真田昌幸・信之、そして弟の信繁(のぶしげ/幸村)は、徳川家康による会津征伐に従い、下野・小山(栃木県小山市)にいました。その時、上方で石田三成が挙兵したとの報せが届いたのです。関ヶ原の戦いの勃発でした。
この時、真田親子は大きな決断をします。父・昌幸と弟・信繁は石田三成の西軍に付き、小松殿の夫・信之は東軍を選んだのです。
これには、どちらが負けても真田家は残るという算段があったからだとも言われていますね。家康の養女である小松殿を妻にしていては、信之は東軍に付くのが当然でしたし。
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「たとえ舅でも城には入れない!」と宣言
関ヶ原の戦いの際にも、小松殿には男勝りな逸話が伝わっています。
西軍に付くことを決め、上田へと戻ろうとした昌幸でしたが、「一目だけでも孫に会いたい」との思いから、小松殿が留守をあずかる沼田城(群馬県沼田市)に立ち寄りました。
昌幸が門の外から来訪を告げると、何と、現れたのは武装した侍女たち。それを率いていたのは、これまた武装した小松殿でした。
そして、「すでに敵味方に分かれた身。大殿(おおとの/昌幸のこと)といえども、門を開けるわけにはいきません!」と高らかに叫んだのです。
これには、さすがの昌幸も退散するしかありませんでした。
すると、投宿していた寺に、小松殿が息子たちを連れてやって来ます。昌幸の思いをきちんとわかっており、細やかな心遣い…と言いたいところですが、その対面は大勢の護衛兵が取り囲み、監視の目を光らせる中でのものとなりました。
しかし昌幸は、「さすが本多忠勝の娘よ!武士の妻はああでなくてはな」と感心したとか。
歴戦の名将である舅さえたじたじとさせた小松殿、実にカッコいい女性ですよね。
流罪にされた舅を気遣う
昌幸と信繁は上田城に戻り、徳川方を足止めするなどまたしても活躍しますが、肝心の本戦は、西軍の敗北に終わりました。
このため、昌幸と信繁は高野山へ流罪となり、信之は父の領地を加増されることになったわけです。本来ならば昌幸と信繁は死罪にされてもおかしくありませんでしたが、信之に加え、小松殿の実父・本多正勝による助命嘆願が功を奏したのでした。
小松殿はこの時、高野山で苦しい生活を強いられる舅と義弟を気遣い、何度も手紙を送っています。倹約につとめ、仕送りをしていたとも言われていますよ。こういうところが良妻だなと感じますよね。その一方、徳川方に付いても「真田」だとして何かと疑いの目を向けられる信之を、陰から支えました。
死地から戻った息子さえ叱咤する気概
小松殿の厳しさは、関ヶ原の戦いの折に舅・真田昌幸を城に入れなかったことだけに留まりませんでした。戦場で醜態をさらした息子たちを一喝するなど、丸くなるという言葉とはまったく無縁の、相変わらずの男勝りな部分を発揮し続けたのです。ただ、夫・信之にとっては、彼女は唯一無二の光でした。彼女の人生の後半を見ていくことにしましょう。
大坂の陣が起こり、息子たちを戦場に送る
徳川家康と豊臣家の緊張は高まり、慶長19(1614)年にはついに大坂冬の陣が勃発しました。この時、小松殿の義弟に当たる真田信繁は豊臣方として大坂城に入り、徳川方である夫・信之とは再度敵対関係となります。
信之はこの時、病を患っており、戦に参加することができませんでした。そこで、代わりに信吉(のぶよし)と信政(のぶまさ)という2人の息子を派遣することにします。一説には、信政のみ小松殿の実子で、信吉は側室の子と言われていますね。
とはいえ、正室である小松殿にとってはすべてが実子と同じこと。2人の息子たちの武運を祈り、戦場に送り出したのです。