その他の国の歴史

【独断で選定!】世界を変えた4人の革命家をわかりやすく解説!

中華民国の成立

こうして着実と革命へと進んでいく中国。そして1911年に外国資本を受け入れて全国の鉄道を国有化にするという宣言を行うと中国全土でこれに反対するデモが巻き起こります。その中でも特に四川省での暴動は凄まじく、さらに連鎖的に武昌蜂起が勃発。この蜂起から中国全土の蜂起につながりそして清朝からの脱出と共和制国家建国を宣言したのでした。

この蜂起を受けて革命の成功と判断した孫文は帰国し、革命の主導者として活躍。翌年の1912年には中華民国の初代大総統に就任して南京を首都とする中華民国が成立したのです。

清朝の滅亡

こうして中国南部に中華民国が建国されましたが、依然として北京を中心として清朝の勢力は残っていました。しかし、1912年にこの当時清朝を牛耳っていた袁世凱という軍人がクーデターを実行。当時の皇帝宣統帝を退位に追い込み297年続いた清朝の歴史に幕を下ろしました。

また、袁世凱は孫文に対して中国北部を中華民国に渡すという条件で臨時大総統という役職にも就任し中華民国は中国を統一したのです。

しかし、これは同時に中華民国の困難の始まりを意味していました。

袁世凱による逆クーデター

こうして中華民国は中国全域を支配下に置きましたが、やはり中国にて共和制国家をやるにはいかんせん人口と時期が早すぎる。そのため、中華民国の政府の力が弱く、その分温存していた袁世凱率いる軍の力がどんどん強くなっていきます。

しかし、孫文は諦めません。孫文はこれまで中国各地に散らばっていた革命政党を統一して中国国民党を結成。さらに南京にて議会政治が行われ始めます。でも、自身の権力を強めていきたい袁世凱はこの運動に反抗。逆クーデターを起こして中国国民党の指導者を暗殺してこの党を取り潰します。こうして第二革命という袁世凱の討伐を目的とした革命が起こるのですが、これは強力な軍を持っている袁世凱によって鎮圧。孫文は命からがら東京に亡命して無事でしたが、これより袁世凱による独裁政治に突入していくことになるのです。

未だ成らず革命

こうして東京にまた亡命した孫文でしたが、1916年に袁世凱が中華帝国を建国するとそれに反抗した第三革命が起こり、失意のうちに袁世凱が亡くなってしまいます。

その後、孫文は日本の中国進出に抗議した五・四運動を機に中国に帰国。再び中国国民党を結党して中華民国を立て直します。

しかし、この頃になると中国全土では袁世凱の意志を継いだ軍人たちが各地を治める軍閥政治に入っており、かつての革命の意思はなくなっていたのでした。でも、孫文は最後の最後まで中華民国による中華統一を諦めておらず、1924年に中国共産党と第一次国共合作を行うなど精力的に中華民国の勢力を拡大していきます。

しかし、その翌年に孫文は59歳で死去。『革命未だ成らず』という言葉通り、最終的な革命の目標を達成せずにこの世を去ってしまったのでした。

そして、その孫文の意思は蒋介石に受け継がれていき、北伐による中華統一へと動き始めることとなるのです。

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