カエサル、ガリアに遠征
紀元前58年、カエサルは執政官の任期を終えるとガリア属州の総督となりました。ガリアとは現在のフランスやベルギーにあたる地方で、ケルト民族系のガリア人の居住地です。
当時のガリアはいくつかの部族に分かれて争っている状態。それでも、かつてはイタリアへの侵入やハンニバルへの協力などでローマの脅威となっていたガリア人。この地を征服することでカエサルは富と名声を得ようとしたのでしょう。
カエサルのガリアでの活躍は彼自身が記録した『ガリア戦記』に詳しく記録されています。一時はガリアだけではなく対岸のブリテン島(現在のイギリス)への上陸も果たしますが、補給不足などから撤退。ガリアの支配に専念します。
紀元前52年にガリア人指導者ヴェルキンゲトリクスと対決し、苦戦を強いられますが、アレシアの戦いで勝利しガリア支配を決定的なものとしました。
クラッススの死と第一回三頭政治の崩壊
ガリアでカエサルが戦っていたころ、ローマでは元老院が巻き返しをはかります。元老院派はカエサルとポンペイウスの間を裂き、ポンペイウスを元老院は引き込もうとはかりました。
カエサルは急遽、北イタリアのルッカでポンペイウス、クラッススの両人と会談。紀元前56年の執政官選挙ではポンペイウスとクラッススを当選させること、執政官の任期終了後にポンペイウスはヒスパニア属州の支配権を得、クラッススはパルティア遠征の実行権を与えられること確認します。カエサル自身はガリアでの戦闘継続を認められました。
紀元前53年、ルッカでの約束に基づきクラッススが現在のイランを支配していたパルティアへの遠征に向かいます。しかし、クラッススはパルティア騎兵の機動力に対抗できず大敗、戦死してしまいました。三頭政治一角が死に、三頭政治は崩壊します。
カエサル、終身独裁官となる
三頭政治崩壊後、ポンペイウスは元老院派に取り込まれてしまいます。ポンペイウスに嫁いだカエサルの娘、ユリアの死が二人の間を冷え込ませたことも原因の一つでしょう。ポンペイウスを味方につけた元老院はカエサルに対して軍を解散しローマに帰還することを命じます。カエサルと元老院派の戦いを追いましょう。
ルビコン渡河
紀元前49年、ポンペイウスと手を組んだ元老院はカエサルに対し、軍を解散しローマに帰還せよと命じる「セナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム」をだします。日本語に意訳すると「元老院最終勧告」。元老院最終勧告に従わないものはローマへの反逆者とみなされ追い詰められてきました。
当時、本国ローマと属州の境界線がルビコン川でした。通常、この川を軍を率いて渡河することは禁じられています。カエサルは「賽は投げられた」と部下たちに告げると軍を率いたままルビコンを渡河。元老院最終勧告の威力を信じ、カエサルが従う者と考えていた元老院派やポンペイウスは驚いてローマから脱出。こうして、カエサルとポンペイウス・元老院派の戦いが始まりました。
ポンペイウスとの対決
ローマを制圧したカエサルはポンペイウスの軍団がいるヒスパニアの制圧に向かいました。ポンペイウス軍はマルセイユやヒスパニアで抵抗しましが、ギリシアからのポンペイウスの援軍が来ないことを知ったポンペイウス派はカエサルに降伏します。
後顧の憂いを絶ったカエサルはポンペイウスが待つギリシアへと軍を派遣。ギリシアでの初戦であるデュラキウムの戦いはポンペイウス軍の勝利に終わりました。
歴戦の武将であるポンペイウスはカエサル軍の疲労を待つべきだと考えましたが、元老院議員らがカエサル追撃を主張。そのため、ポンペイウス軍はカエサル軍の後を追って中部ギリシアのファルサロスに入ります。
ファルサロスの戦いではガリア遠征以来の軍団である第九軍団や第十軍団が大活躍。カエサル軍は数的に有利だったポンペイウス軍を打ち破りました。
カエサルの勝利と凱旋式
ファルサロスでの決戦に敗れたポンペイウスはエジプトに逃れますが、この地を支配していたプトレマイオス朝はポンペイウスを暗殺。カエサルに首を引き渡しました。
ポンペイウスを追ってエジプトまで来たカエサルは内紛状態にあったプトレマイオス朝の中でクレオパトラ7世を支持、反対派を倒します。カエサルはクレオパトラと親密になり、しばらくエジプトに滞在し、ナイル川の川下りなどを愉しみました。その後、小アジアや北アフリカ、ヒスパニアで元老院派などと戦い勝利を重ねます。
こうして、一連の内乱を治めたカエサルは首都ローマで凱旋式を挙行しました。古代ローマの凱旋式で、兵士たちは将軍をからかうヤジを飛ばす慣例があります。カエサルの軍団兵たちは「男たちよ妻を隠せ!ハゲの女たらしのお通りだ!」叫んだといいます。これには、さすがのカエサルも参ったことでしょう。