日本の歴史

日本史の中で活躍した素晴らしい外国人たち5選

日本での布教活動と織田信長との出会い

フロイスは16歳の若さでイエズス会に入り、1563年、31歳の時に日本へ行くチャンスを得ました。それまでに来日を果たしていたザビエルとも会っているので、色々と日本のことも聞いていたのでしょう。来日したフロイスは、難解な日本語を真面目さと熱心さでマスターし、いよいよ本格的な布教のために京都へ向かったのです。

しかし、布教活動を始めた矢先、最大の庇護者であった将軍足利義輝が家臣によって殺されてしまうことに。危機を感じたフロイスは堺へと難を避け、布教に没頭している場合でもなく雌伏の時を過ごすことになりました。

転機が訪れたのはそれから4年後のこと。足利義昭を奉じて入京してきた織田信長と対面するチャンスが巡ってきたのです。場所は二条御所の建築現場でした。新しく珍しいものが好きな信長はフロイスの話を熱心に聞き入り、その場で布教活動を許したとのこと。既存の仏教勢力に対して疑問を抱いていた信長と利害が一致した結果だといえるでしょう。

歴史史料「日本史」を編纂する

1580年、フロイスは同じ宣教師のヴァリニャーノと共に完成間もない安土城を訪れています。

中央の山の頂きに宮殿を築いたが、その構造と堅固さ、財産と華麗さにおいて、それらはヨーロッパの最も壮大な城に比肩し得るものだろう。

多くの美しい豪華な邸宅を内部に有していた。それらにはいずれも金が施されている。

彼らが天主と呼ぶ塔があり、我らヨーロッパの塔よりもはるかに気品があり、壮大な建築となっている。この塔は七層から構成されていて、内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営されている。

引用元 「完訳フロイス日本史」より

フロイスの記録「日本史」からの抜粋ですが、このような客観的な描写がなければ、安土城の壮麗さは伝わってはこなかったことでしょう。また、この時に連れてきていた黒人奴隷を信長が気に入り、【弥助】と名付けて自分の直臣にしたとも記述されています。

その後、本能寺の変で信長が亡くなり、やがて豊臣秀吉が政権を掌握すると、伴天連追放令が出されることに。それでも最後まで日本に骨を埋めるつもりでいたフロイスは、長崎で起こった二十六聖人の殉教を記録に残し、この世を去ります。

キリスト教の栄光と挫折、戦国時代の日本をリアルに描いた「日本史」は、第一級史料として日本の歴史に燦然と輝いているのです。

武士になったイギリス人【ウィリアム・アダムズ 1564年-1620年】

image by PIXTA / 23566744

江戸時代、外国人が帰化し武士となった例はいくつかありました。宣教師だったフェレイラキアラなどがそうなのですが、彼らは信仰を捨てて帰化しただけであって、常に幕府から監視されていました。しかし、イギリス人でありながら幕府旗本にまでなった人物が存在していたのです。それがウィリアム・アダムスでした。

リーフデ号、日本へ漂着

16世紀末、オランダのロッテルダムから極東へ向かう5隻の船団がありました。しかし、その途上で難破したり、敵国のポルトガルやスペインによって次々に拿捕され、ついにリーフデ号1隻となって現在の大分県臼杵に漂着したのです。(リーフデ号事件)

助けられた船員たちの中に航海長だったイギリス人ウィリアム・アダムズがいました。当時、五大老首座だった徳川家康が引見と吟味のために彼らの話を聞くことになりましたが、家康は後年、積極的に朱印船貿易を推し進めるほどの海外好きだったため、船員のうち、アダムズとオランダ人ヤン・ヨーステンのことがいたく気に入ったそうです。

江戸へ案内され招かれた二人は、家康によって留め置かれ、通訳や助言の仕事を任されました。そして徐々に日本の文化風習に慣れてきて屋敷地を与えられ、日本人妻を娶ることになりました。ヤン・ヨーステンの屋敷地となった東京の八重洲は、ヨーステンの和名【耶楊子(やようす)】に由来があるのです。

アダムズ、日本の武士となる

通訳や助言の仕事以外にも、帆船の建造や航海術の指南など、家康に仕えて様々な功績を挙げたアダムズは、ついに旗本という250石取りの大身となり、【三浦按針】と名を変えます。その後、江戸幕府の朱印船貿易の推進にも協力し、家康の良き外交パートナーとして活躍したのでした。

しかし、家康が死去すると按針(アダムズ)の身の上は不安定なものとなりました。幕府の禁教令とともに、朱印船貿易もまた欧米諸国からの侵略行為の一つだと見なされ、制限と監視が強化されていったからです。活躍の場を失った按針は不遇のうちに1620年、死去しました。

按針の息子【ジョセフ】もまた、二代目三浦按針を受け継ぎますが、それ以降の事績は明らかではありません。鎖国令に伴って国外追放となった説が有力ですが、もしかしたらアダムズの子孫がまだ日本にいるのかも知れませんね。

ちなみに2017年、按針と縁の深い平戸市が没後400年の2020年を目標に、按針の子孫を捜す方針を明らかにしました。伝三浦按針墓で発見された人骨をもとにDNA解析を行い、母国イギリスや日本国内でも捜索するとのこと。夢が膨らみますよね。

次のページを読む
1 2 3
Share:
明石則実