中国の歴史

面白人物ばかりな中国の歴代皇帝7選をご紹介&解説

農民に優しい政治

こうして朱元璋は洪武帝として皇帝に即位したのですが、洪武帝は元々貧乏な農民の生まれだったので農民の苦しみというものをわかっていたということがありました。そこで洪武帝は中国にいる農民の生活を良くするために様々な改革を行なっていきます。

その代表的な政策が里甲制というシステム。このシステムによって中国の行政を整えていき、さらには魚鱗図冊という地図を作り上げて公平に税を取り立てれるようなシステムを作り上げていったのでした。

役人の大粛清

洪武帝は農民には優しかったのかもしれませんが、洪武帝は官僚にはものすごく厳しく何があるごとに粛清していきました。

その粛清の仕方もかなりエグいもので洪武帝は皇帝になる以前の自分の立場を馬鹿にされることを極度に嫌っていたことがあったため、皇帝に対する手紙の文字にかつて僧侶だったことを思い出させる「僧」や「禿」という言葉を使うともれなく処刑されることとなります。

もちろんそんな無茶苦茶な考えて官僚たちが生き残れるはずもなく次々と官僚たちは粛清されることとなり、挙げ句の果てには当時中国の役人になるためには絶対に通らなければならなかった科挙は洪武帝が即位していた時代はものすごく簡単なものとなってしまったのです。

しかし、兎にも角にも明王朝が長続きするようになったのは洪武帝が謀反を起こしそうな官僚を粛清したからという面もあり、これに対する評価はかなり微妙なところですね。

7. 康熙帝【清の最盛期を築き上げた名君】

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次に紹介するのは康熙帝。康熙帝は清第4代皇帝として中国を支配することになるのですが、この康熙帝は光武帝・太宗に並ぶ中国三大名君の1人に数えられているほどの功績を残した皇帝でした。

清の中国統一

康熙帝は1654年に清第3代皇帝である順治帝の嫡子として生まれました。この頃の清は明を滅ぼして中国を統一するところまで行きましたが、まだ台湾には明の残党勢力が残っておりまだ不安定な状態でした。

そんな中、康熙帝はわずか6歳にして清第4代皇帝に即位。康熙帝は早速この不安定な状況であった中国情勢をなんとかしようと動き出します。

康熙帝は雲南で起こった呉三桂による三藩の乱を8年の歳月をかけて鎮圧。中国大陸の覇権を確固たるものとしてさらには1683年には台湾にいた明の残党勢力を制圧して台湾を清に編入。さらにはモンゴルやチベット地方を制圧して清は一大帝国を築き上げたのでした。

さらにはロシアとの間にて戦争を行なった後1689年にネルチンスク条約を締結。北方の国境を確定して清の安定を手に入れたのでした。

内政と学問保護

康熙帝が名君だと呼ばれている理由。それは、清の安定を手に入れただけではなく、学問を奨励して内政を整えたことにあったと思います。

康熙帝は国内を安定させたあと内政に着手。当時氾濫がたびたび起こっていた黄河の治水を行い、さらには地丁銀制というシステムを取り入れて経済を安定させることに成功しました。

さらに、康熙帝は内政の他にも学問に力を入れ、現実的な学問を奨励し自身も学問に精通して自ら当時の漢字をまとめ上げた康熙辞典を編纂しました。

このような学問による統制と内政によって清は全盛期に突入。眠れる獅子と言われても遜色がないぐらいに強大な大帝国に成長したのでした。

皇帝は国のリーダーとして政治を左右した

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ここまで見てきた皇帝たちは全て自分の意志を持って政治を行ってきました。それが良くなったのか悪くなったのかは別ですが中国の歴史にとって皇帝という存在は無くてはならなかったということがよくわかりますね。

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