日本の歴史明治明治維新

日本の鉄道いまむかし~その歴史をたどってみよう~

さらなる高性能列車の登場

東海道本線が電化されたといっても、それは日本の大動脈であったからであって、まだ日本のほとんどの地域が非電化区間でした。そこで蒸気機関車に代わる新たな車両の開発が急務でした。従来の石炭にかわる新たなエネルギーとして石油が注目されており、ガソリンよりも安い軽油を使用するディーゼル機関車ディーゼルカーが次々に開発、投入されていったのです。

いっぽう特急型電車の開発も進み、東京~大阪間を日帰りできる特急として151系電車が開発されました。愛称は「こだま」といい、それまで一般的ではなかったリクライニングシートを採用し、二重構造の窓を持つスピードと乗り心地を重視した車両だったのです。そのコンセプトは181系~485系~現在に至るまで継承されてきたといえるでしょう。

 

 

東海道新幹線が開業する

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国鉄は、それまでも東京~大阪間を結ぶ東海道地域の運行本数の拡充を進めていましたが、高度経済成長期に伴う需要がまったく追い付かず、新しい路線を検討せねばならなくなりました。東海道新線。それが新幹線に結び付くのです。

建設予算の問題

当時、国鉄総裁だった十河信二は昭和32年に「東海道線増強委員会」を発足させて、東海道新線の研究を行わせます。まず議論になったのは、「従来の路線に張り付けて増強を行う」のか?「まったくの別線を建設する」のか?ということでした。

従来の路線に新しい路線を張り付ければ、その分建設用地の確保が最小限で済むので予算は安く済みます。いっぽう、まったくの別線を作れば、明らかにスピードアップは図れますが膨大な予算が掛かるのです。

「膨れ上がった需要を補うためには別線しかない」という十河総裁の熱意もあり、昭和33年に出された「日本国有鉄道幹線調査会」には「5年を目標にして工事を完成させる」と記載するいっぽう、予想される資金難に対しては、実は思いもよらない方法が取られました。

当時、大蔵大臣だった佐藤栄作から「世界銀行から借款を受け、国家プロジェクトとして外から事業を縛るべき」と助言を受け、日本政府として新幹線事業黒部ダム事業などと併せて8億ドル超の借款を得ることになったのです。それらの全てを返済し終えたのは1990年のことでした。

東京オリンピックと東海道新幹線

昭和34年に着工した東海道新幹線の工事は、突貫工事で行われたものの、当時の建設技術の粋を集めたものでした。日本特有の軟弱地盤に対しては、剛性の高い地中梁で組んだラーメン(骨組み)構造を採用し、都市部では騒音の出ない施工方法であるベノト杭工法を採用。さらには設計施工の標準化を推進して、徹底的な合理化を図りました。

何より短納期で完成できたのは、全国の中小建設事業者を総動員し、工区を細分化してそれぞれの請負業者に任せ、最後まで責任を持つように徹底したことでした。なぜなら自分の受け持ちが明確にわかれば目標を決めやすいからです。

こうして東海道新幹線が完成し開業したのは、なんと東京オリンピックの開幕日の10日前のことでした。

国鉄の分割民営化。そしてJRへ

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日本の輸送を支え屋台骨となってきた国鉄でしたが、肥大化しすぎた組織がゆえに大きな問題を抱えていました。時の政治権力や地方の声に耳を貸し、採算が取れない路線まで拡張し続けてきたツケが代償として重くのしかかってきたのです。そして分割民営化の波はもうそこまで迫っていました。

膨大な赤字を抱える国鉄

モータリゼーションの発達や航空機路線の拡充に伴って、昭和40年代には既に膨大な赤字体質となっていた国鉄。民間企業であればとっくに倒産となっているはずなのですが、国の根幹である交通インフラであるがゆえに潰されることもなく、政治的要求もあって存続していました。

それでも膨れ上がった債務を少しでも解消するため、赤字路線の廃止や運賃値上げなどを断行するものの、逆に利用者離れを誘発してしまい、焼け石に水の状態になってしまいます。当時は国鉄労組の力も強く、民間事業者のように人員整理もままなりません。国鉄職員は最盛期には約46万人。まさに肥大化した組織だったのです。

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