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日本の鉄道いまむかし~その歴史をたどってみよう~

戦争による惨禍【太平洋戦争期】

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乱立していた私鉄の国有化によって、官鉄(国が保有する鉄道)は全国にその幹を広げ、枝葉を伸ばして、日本中をくまなく網羅するようになりました。また車両やレールの国産化にも成功し、世界でも類を見ないオンリーワンの鉄道となったのです。しかし、徐々に戦争の足音は近づいていました。

電車の普及と高速化

都市部では20世紀初め頃に電車が徐々に普及し、多くの人々を運ぶようになりました。昭和2年には東京で地下鉄が開業し、続く6年後には大阪でも開業。鉄道の電化は通勤やレジャーなどの重要な足となったのです。私鉄では昭和60年代まで戦前の電車が活躍していたことを考えると、その高性能さには驚かされますね。

都市の輸送には速達性が求められるため、出足の速い電車が次々に開発されました。発車してから次の駅へ行くまでに、いかに早くトップスピードに達することができるか?その頃から都市圏ではスピード競争が始まっていたのですね。それはやがて戦後の阪神電鉄のジェットカーなどに受け継がれていきます。

さらに鉄道網が全国津々浦々まだ及んだことによって長距離列車も登場し、東京と名古屋圏、関西圏、遠くは下関に至るまでの特急列車が設定されました。それらの編成には食堂車も連結され、長距離移動に適した設備も整えられていました。

空襲の標的となる鉄道

太平洋戦争が始まると、日清・日露戦争の時と同じく鉄道が重要な輸送経路となりました。それがゆえに戦争の後半となり、日本への空襲が本格化すると、鉄道を含む交通インフラの破壊がアメリカ軍の主要目標となったのです。

さらにはアメリカ海軍の空母が本土間近にまで迫り、その艦載機が低空から攻撃できるようになるとピンポイントで機関車や列車が狙われました。被害を受けた線路の総延長は約1,600km、破壊された駅舎は198か所、失われた車両は約4,000両近くにまで及んだのです。

ここまで破壊されながらも、日本の鉄道はしたたかでした。当時は復旧のための重機械など皆無であったにも関わらず、驚くべき短期間で復旧したと言われています。広島に落とされた原子爆弾で甚大な被害を被った路面電車も、わずか3日で運転を再開しているほどです。

復興の象徴となった鉄道

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1945年(昭和20年)、太平洋戦争が終結し、日本は平和の時代を迎えることに。しかし、戦後のないない尽くしの中で復興を遂げていく鉄道は、様々な苦難を味わいながらの茨の道となりました。

混乱と資材の不足で事故が続出!

戦争で大打撃をこうむった鉄道は、休む間もなく働き続けます。人々の日々の生活のための買い出し列車や、外地からの引揚者を輸送する引揚列車などが編成され、運行されました。

しかし、粗悪な材料で製作された戦時列車は頻繁にトラブルを起こし、メンテナンスをすることなく運行されたために不具合が続出したのです。肥薩線列車事故八高線正面衝突事故、笹子駅列車転覆事故など、乗車定員以上に乗せたことや運行計画の混乱による悲惨な列車事故が相次ぎ、多くの人が犠牲になったのでした。

また、進駐軍専用の車両が最優先で製造されたため、日本人が乗る車両は製造と供給が追い付かず、窓ガラスや座席がない車両まで配置される有様でした。

特急列車の復活と80系電車の登場

朝鮮戦争が始まり、日本に好景気が訪れると鉄道事情も劇的に変化していきます。昭和24年に日本国有鉄道(国鉄)が発足し、その年のダイヤ改正で東京~大阪を結ぶ特急「へいわ(後のつばめ)」が登場しました。ようやくの特急復活でした。そして間を置かずに東海道本線では全線が電化区間となり、電気機関車が投入されました。これまでの蒸気機関車では成しえなかった高速化が実現したのです。

また、この時期には画期的な高性能電車が登場しました。湘南電車といわれた80系電車がそれで、高速、静粛性、乗り心地の良さを兼ね備えた、それまでにはなかった電車でした。東京~沼津間を16両という長大編成で運行し、当時としては世界最長の電車編成だったのです。機関車編成とは違い折り返し運転もスムーズで、まさに効率的だったのですね。この80系電車の登場が、後の新幹線へと受け継がれていきます。

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明石則実