ヨーロッパの歴史

ヨーロッパ社会を変えた「ルターの宗教改革」とは?プロテスタントの誕生をわかりやすく解説

教会のルターの追放

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ドイツ国内でキリスト教のビラを撒きまくったルター。しかし、これを教会勢力は見逃すことはありません。1520年にレオ10世は95か条の議題を取り消さなければ破門するとルターに宣告。もちろんルターはこれを受け入れることはなくこの書類を民衆の前で焼捨てます。こうしてルターと教会勢力の対立は決定的なものとなり1521年に教皇によって破門(キリスト教社会から追放すること)。ルターは教会勢力と決裂しルターが考える新しいキリスト教の宗派を立てることを決意します。

さらに同じ年この当時の神聖ローマ帝国の皇帝であるカール5世がルターをヴォルムス帝国議会に召喚し、自分の考えを撤回するように命令ますが、これをルターは「我ここに立つ」にあくまでも自分の考えを押し通しました。

こうしてカール5世はヴォルムス勅令を提出。ルターを法律の保護下から外すという現代ならありえない処罰に処したのでした。

広がるルターの考え

法律の保護下から外されたルター。これはつまり神聖ローマ帝国領内なら彼を殺しても罪に問わないという意味となりますので彼にとっては絶体絶命のピンチとなってしまいます。しかし、運のいいことに神聖ローマ帝国という国は今のような1人の指導者によって運営されているので無く、たくさんの諸侯が集まっているという日本における幕藩体制と同じ状況だだったのです。つまりカール5世が彼を処罰しても彼を支える諸侯がいれば立ち直ることができたのでした。

その通りこの時教会に対して疑問的な考え方を持っていた諸侯は少なからずおり、その中でもザクセン選帝侯フィードリヒ3世は処罰を受ける覚悟でルターを領内の城にかくまったのです。

こうしてルターは自身の考えを支持する理解者を手に入れここから教会勢力に対抗するために本腰を入れ始めたのでした。

ルターはまずこれまでの教会のスタンスであったラテン語を読める人のみが聖書を読み、民衆は教会から教えを受けるという方式を改めようとしていきます。ルターはドイツ人誰でも聖書を読めるようにドイツ語訳の新約聖書を製作。ここでも活版印刷術を使いドイツ人が直接聖書から学べる環境を作り出していきました。

ちなみに、現在ドイツ語圏で話されているドイツ語は彼が訳したドイツ語が元となっています。つまりはルターのやったことは現在でも役に立っているということなんですね。

騎士戦争とドイツ農民戦争

ルターが新約聖書をドイツ語訳で出版したことによってルターの教えが火のように広がっていき、ドイツ国内で奥底にあった教会への不満がついに爆発することになります。その第一弾と呼べる者が騎士戦争とドイツ農民戦争でした。

1522年、ルターの教えを支持した騎士たちが騎一斉に反乱を起こし騎士戦争が始まります。しかし、この反乱は神聖ローマ帝国側の迅速は対応によって鎮圧されてしまいました。さらに騎士戦争の2年後にドイツの農民が一斉に蜂起。ルターを信仰した農民たちがこれまで支配されてきた教会に対してついに牙を剥いたのです。

しかし、この戦争は農民があまりにも過激すぎたため最終的にはルターも避難する始末だったそうでこの農民の反乱を最後には10万人の犠牲を出して鎮圧。これを鎮圧した諸侯たちはルター派か教会派に分裂していくことになりました。

 

シュパイアー帝国議会とヴォルムス勅令

騎士戦争やドイツ農民戦争が起こり神聖ローマ帝国内での分裂がどんどんひどくなっていく中、ヨーロッパ情勢では宗教改革どころでは無くなっていきます。1526年ドイツ農民戦争を鎮圧していた時をチャンスと見た当時世界最強の帝国だったオスマン帝国がハンガリーに侵攻。この地を占領しました。この状況はルター派からすれば教会派の注目がオスマン帝国に向かうためラッキーなことでしたが、カール5世とっては大ピンチ。このままではルター派とオスマン帝国によって神聖ローマ帝国は挟み撃ちとなってしまいます。

そこでカール5世はこの状況においてルター派の信仰の禁止を取りやめ。ルター派との対立を抑えようとしました。

しかし、こうなると教会への反抗がある神聖ローマ帝国は一気にルター派に傾いてしまいます。そのため信仰の取りやめを行った3年後にヴォルムス勅令という信仰の禁止を復活させ再びルター派と対立しました。

こうして一時は無くなりそうだった対立は元通り。ルターはこの勅令に抗議(プロテスト)を行いここから先ルター派の考えはプロテスタントとして信仰されていくことになります。

スイスでの宗教改革

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ルターがドイツにおいて宗教改革を行っていく中、お隣の国であるスイスにおいても宗教改革の波が押し寄せていました。次はそんなスイスにおける宗教改革について解説していきます。

 

ツヴィングリの改革

ドイツにおいてルターか95か条の議題を提出したことを受け、スイスの宗教学者であるツヴィングリも同調。1519年に贖宥状を批判してチューリッヒ州において宗教改革を推し進めていきます。そのためツヴィングリの考えはルターと同じ聖書の信仰するというというものでした。

しかし、ルター派の最大の違いである聖餐論(キリストに対する考え方のこと)で対立。ルター派と決別してしまいます。そしてこのツヴィングリの考え方はのちにカルヴァン派として信仰されていくことになりました。

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